細野さんに会わなければサラリーマンになってた
細野晴臣さんは松本隆の「永遠の先輩」であり作詞家となるきっかけを与えた人物。出会いは1968年春。後輩・松本は先輩・細野に「会ってほしい」と電話を入れ、先輩にナメられぬようピンストライプのスーツにレイバンで待ち合わせの場所へと行ったそうです。
細野晴臣
松本から電話をもらったんだ。会いたいと。原宿の喫茶店〈コンコルド〉に来てくれと。
松本隆
店名覚えてるんだ(笑)。お店を指定したのは細野さんだよ。
細野
そうかな?
松本
僕、初めて行ったんだよ。
細野
駅前の喫茶店だった。
松本
ゆるい下り坂の途中。店は地下にあって、狭い階段を下りていった。細野晴臣ってどんな人だろうって思いながらドキドキして。
細野
ふふん(笑)。
松本
僕はそのとき、大学に入る直前の高校卒業した後の春休みで。バーンズっていうアマチュアバンドでドラムをやってたんだけど、ベースが抜けたから補充しなくちゃと。大学に入ったらディスコのハコバンで稼ぎたかったからね。
細野
どうやって僕を知ったの?
松本
とにかく、「立教大に天才ベーシストがいる」って慶應にまで噂が伝わってきてたから。
細野
ベース、持ってったよね?
松本
持ってこなかった。だから、「じゃあいまから道玄坂のヤマハまで行って弾いてみようか」って。
細野
そうだっけ?
松本
原宿から渋谷まで歩いていった。そこは忘れてるんだ(笑)。
細野
それは西暦何年の話かな?
松本
エイプリル・フールを始める前だから68年。その翌年には、大滝(詠一)さんと(鈴木)茂を誘ってはっぴいえんどを始めてる。
細野
じゃあ出会ったときは、僕は大学1年だったのかな?
松本
いや2年。だから細野さんと僕は先輩後輩で、細野さんはその2年分で永久に威張ってるじゃん。松本って呼び捨てだし(笑)。
細野
芸人じゃないけど、そういうのは大事だからね(笑)。
松本のお母さんに
息子を引き込むなと怒られた
細野
で、作詞家45周年なんでしょ。どこから数えて45年?
松本
はっぴいえんどから。実際は、はっぴいえんど前、細野さんに「松本、詞を書け」って言われて5〜6曲一緒に作ってる。バーンズとエイプリル・フールのとき。
細野
僕が詞を書けと言ったのか。
松本
覚えてないの?
細野
口から出任せを言ったんだな(笑)。もともとそういう素質があるわけだから。僕が言ったというより必然的にそうなったんだ。
松本
でも、細野さんに会わなければ僕はサラリーマンになってた。
細野
だから、ホントにドロップアウトさせちゃったから、君のお母さんに呼び出されたんだ。「うちの息子を悪い道に引き込まないでくれ」と(笑)。大学を卒業しないで飛び出ちゃったもんね。
松本
大学とどっちが面白いって、はっぴいえんどに決まってるから。
細野
僕は卒業したけど(笑)。
松本
僕に卒論書かせておいてさあ(笑)。覚えてる?
細野
「これからはっぴいえんどという世にも大事なバンドをやるんで」と教授に言ったんだ。「こういう詞を松本隆が書いております」って、詞も一緒に提出して。そしたら卒業できた。きっとその詞を読んで感激したんだよ(笑)。
松本の詞先で作曲するのは
スリリングで面白い
松本
はっぴいえんど解散後は、ドラムをやめて作詞家になるとか、そういうことはなにも言わなかったと思う。なんか言ったかな?
細野
いやいや、あの頃はみんなバラバラになってたから。コミュニケーションはまったくな
松本
マジで仲悪かった(笑)。バンドの解散ってそういうことなんだよ。でも、半年ぐらいだよ仲違いしてたのは。詞を書いてって細野さん頼んできたじゃない。
細野
あ、そうだった?
松本
初めてのソロコンサートをやるから、そこで新曲をやりたいから詞を書いてくれって。
細野
それ初めて聞いた。
松本
自分で言ったくせに(笑)。それで、「驟雨の街」っていう詞を書いて渡して。ライブでやったとは聞いたんだけど、その後細野さんが出した『HOSONO HOUSE』には収録されなかった。ああ、気に入らなかったんだ、ボツになったんだと思ってさ。
細野
あの詞は難しかったんだ。松本とやるときは必ず詞が先で。詞の世界が音楽を形作っていくという、ちょっとスリリングなやり方。最初にメロディを作っちゃうとピッタリはまりすぎるから。
松本
予定調和になる。だから、言葉が先にあると思いがけないメロディ展開ができたりするよね。
細野
そう、難しくて作りにくい詞が面白いの。詞を先に書くときは、頭の中で音楽が鳴ってんの?
松本
ある程度構成を考えてメロディをつけやすい言葉数は考える。
細野
メロディも出てくるの?
松本
出ない出ない。
細野
出たら自分で曲作るよね。
松本
作ったとしても、細野さんが笑うから発表できない(笑)。
細野
松本がポップスの作詞家となってヒット曲が出てきたときは、やるなあと思ったね。こっちはYMOをやり始めた頃かな。
松本
あの頃はよく会ってた。YMOのちょっと前に「細野さん最近なにやってるの?」って聞いたら、「ゲーム音楽やってる。なんかピコピコしたやつ」って(笑)。
細野
説明するのが面倒で(笑)。
松本
そしたらYMOがどーんと売れた。うわ、すごいなって。
細野
YMOが売れた途端、間髪入れずに松本から連絡があった。「松田聖子の曲を書いてくれ」と。
松本
そうだっけ?
細野
ちょうど大滝君の『A LONG VACATION』のセールスが伸びていた頃かな。松本は、「これではっぴいえんどだ!」って言いだした。それを待っていたような。松本のなかには、はっぴいえんどの幻影があるんだなと思った。
松本
僕のなかでは通底してる。人脈的にも音楽的にも。解散から10年経ってまた違う形でやるのも面白いんじゃないかなって。
細野
うん、面白いと思った。気軽だったのは、松田聖子はすでに売れているから、そういうことは考えなくてもいいなと。最初に作ったのはアルバムの曲だったね。
松本
何だったっけ?
細野
アレだよアレ。デモテープに自分で歌ったアレ。「あなたひとりだけが王子様よ」って。
松本
「黄色いカーディガン」だ。このあいだ、松田聖子の「天国のキッス」をYouTubeでたまたま見て。あの歌が松本・細野から出てきたのがすごいなと思った。健康的で明るくて、360度全方位に放射してる歌じゃない。ある意味、最高傑作だなって。最高傑作は日替わりだけど(笑)。
細野
ポップスに移行してから松本の詞は、はっぴいえんどとは全然違う言葉の使い方になった。わかりやすく、ストーリーもあって、すごくソフィスティケートされて。とにかく、作りやすい。詞があるとすぐに曲ができちゃう。
松本
あるとき細野さんが「たまには曲先でやりたい」って言ったんだけどレコーディングになっても全然できなくて。このままだと間に合わないから詞を書いた方が早いと思って、廊下で詞を書いて渡したんだよね。
細野
え、何の曲のとき?
松本
覚えてないの?松田聖子の「ガラスの林檎」だよ。
細野
そうだったか(笑)。松本と一緒にやったポップスでは、松田聖子の一連の曲もいいけれど、やっぱり「風の谷のナウシカ」が印象深いかな、いろんな意味で。
松本
あの曲は評判いい。安田成美は歌が苦手で最初の歌入れのとき、ものすごく緊張して全然歌えなくてさ。とにかくリラックスさせようと思って、「いちばんラクな姿勢で歌ってみて」って言ったら、広いスタジオの真ん中でポツンとあぐらをかいた(笑)。
細野
ナウシカみたいに(笑)。僕は初々しくていいと思ったよ。ヘタだなんて全然思わなかった。
松本
不思議な存在感だった。あの頃は、そういう女の子が多かった。薬師丸ひろ子もものすごく広いスタジオの角で背中向けて歌ったりするんだ(笑)。そういう方がいいよ、アイドルは。歌い慣れてない女の子が歌うのが良かった。でも、いまはさあ……。いいや、なんでもありません(笑)。
細野
自主規制(笑)。
松本は稀有なドラマーに
なれるのになあ
細野
それで去年、四十数年ぶりに「驟雨の街」のデモテープが発見されてしまったわけだ。
松本
ボツって記憶から消去してたんだけど(笑)、僕の45周年記念盤(『風街であひませう』)に入れるという話になって。細野さんが曲を作り直すというから、全部書き直した。サビの部分だけを残して。「街は驟雨 通りは川」の1行はメロディも完成されていっちゃってる部分だったからね。
細野
やっぱり、はっぴいえんどをとても思い出すよ。もともとの曲はあの頃に作っていたわけだから。でも、68歳の「いま」なんだ、やってるのは。「おじいちゃんのはっぴいえんど」だと思った。円環だよね。ぐるぐる回ってる。
松本
巨大な円を閉じて自分の人生が「はっぴいえんど」になる。
細野
そう、その通りだ。
松本
でさ、細野さんが、「レコーディングをするなら松本がドラムをやれ」って言うから叩くことになっちゃって。10年ぶりだよ、スティック持ったの。あんなに激しいストレスは久々だった。細野さん、ずっと苦虫噛みつぶした顔して横で睨んでるからさあ(笑)。
細野
ドラムの音を真剣に聴いてただけだよ(笑)。松本は、今後も稀有なドラマーとして十分やっていけると思うんだけどなあ。
松本
そんな65歳も過ぎて稀有なドラマーは目指さないよ(笑)。