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高橋幸宏が見た、日本のロックが国境を越えた瞬間。小山田圭吾と語る〜後編〜

黎明期、日本のロックは日本語という障壁によって閉ざされていた。だが黒船・ビートルズ以降、日本からも海外を目指すミュージシャンが現れたのである。その先駆者の1人、高橋幸宏と小山田圭吾、海外での演奏経験豊富な2人が語る、日本のロックが国境を越えた瞬間。前編はこちら

初出:BRUTUS No.680日本のロック♡愛』(2010年2月15日発売)

photo: Yasuhide Kuge / text: Kyoko Sano(Do The Monkey) / thanks: kongtong@mishuku

ミカ・バンドの70年代から、YMOの80年代へ

高橋

81年のYMOの第2回ワールドツアー(*9)は、初日がロンドンのヴェニューで、おしゃれな洋服屋の店員がたくさん来ていたんだけど、赤い人民服がショッキングだったみたい。レビューはおおむね好意的だったけど、ステージが長すぎると書かれてね。当時はシーケンサーのデータが3曲しかもたなくて、次の曲まで渡辺香津美のギターソロで時間を稼ぐしかなかったから。

小山田

その間にデータをロードする。時代を感じますね。

高橋

ロサンゼルスから衛星生中継した時も、1曲目の『ライオット・イン・ラゴス』(*10)で止まっちゃって、冷や汗タラー。

小山田

ウワーッ!怖!

高橋

実はライブを見ていたのは、ほとんどA&M所属のアーティストで、マンハッタン・トランスファーやオズモンズもいた(笑)。あのディーヴォが会場に入れなかったらしいから。

小山田

YMOはカバーのセンスも抜群でしたよね。

高橋

グリークシアターでのチューブスのオープニングアクトで『デイ・トリッパー』を歌った時は緊張したね。アメリカ人の前で英語で歌うのは初めてだったから。

小山田

『ソウル・トレイン』(*11)にも出演したんですよね。それを見たアフリカ・バンバータが影響されたという。

高橋

ドン・コーネリアスは、クラフトワークも知らなかったけどね(笑)。『ファイアー・クラッカー』はNYのソウルチャートで1位になったし、『タイトゥン・アップ』も大ウケだった。ロンドンではジャパンやスロッビング・グリッスルも見に来たし。

小山田

ジェネシス・P・オリッジがアルバムのジャケットで、YMOシャツを着てますもんね。

高橋

僕は81年には半年以上ロンドンにいたんだけど、プロデュース作品や参加作品を含めると11枚のアルバムに関わってる。YMOが2枚、鈴木慶一と結成したビートニクス(*12)。ロビン・スコットのアルバムではドラムパターンだけ20種類くらい叩いたり。

小山田

僕は『増殖』を聴いて大笑いしてた小学生でしたけど、YMOは社会現象に近かったですよね。

高橋

あの頃、シーナ&ロケッツやプラスチックスが出るライブを客として見に行ったら、服は破かれるわ、帽子は取られるわ、大変な騒ぎになっちゃって。渋谷パルコにあった自分の店〈Bricks〉(*13)にも行けなくなるし、普通に街を歩けないのは辛かった。

小山田

まだお茶の間があって共通体験ができた時代だし、YMOはテレビやCMにも出ていたから。

高橋

そういえば昔、「YMOの高橋幸宏だ」と名乗って、ヨーロッパ中を渡り歩いていた奴がいたんだよ。ヒューマン・リーグやカンのメンバーと実際に会った時に、初めて僕の偽物だってわかったらしいんだけど(笑)。

小山田

僕は小学校高学年から洋楽が好きになって、ラジオ関東で大貫憲章さんの『全英トップ20』、伊藤政則さんの『ROCK TODAY』を聴いたりするうちにギターに興味が出てきて、レインボウやアイアン・メイデンにハマッて。

高橋

それがなぜフリッパーズ・ギター(*14)になったの?

小山田

その後、パンクやニューウェーブも聴くようになりましたけど、もう後期でしたね。ニュー・オーダー、エコー&ザ・バニーメン、キュア、スミス、スタイル・カウンシル……。幸宏さんがニック・ヘイワード、鈴木慶一さんがアズテック・カメラのライナーノーツを書いていたのも覚えていますよ。

高橋

フリッパーズがデビューした頃、僕がプロデュースした高野寛くん(*15)がすでにデビューしていて、手ごわいライバルが出てきたなと思った。

小山田

僕はデビューしたのが20歳で、まだ音楽を職業にするという意識すらなかった。フリッパーズの時はこんな音楽が好きなのは日本に50人くらいしかいないと思ってやってたし、自分たちのいる状況に違和感がありましたね。

高橋

当時ラジオでフリッパーズの番組を聴いたら、マニアックな曲ばかりかけていて突っ張っているなと思った記憶がある。僕も若い頃は普遍的な音楽やルーツに戻れみたいな感じに抵抗があったからわかるけど。

小山田

ロックシーンに居場所が見つけられなかったというか……。

高橋

YMO再生の時、小山田くんにコメントを頼んだら、「YMOのことはよく知りませんが、幸宏さんとはボウリングをしたことがあります」って(笑)。

小山田

ボウリングは信藤(三雄)さん(*16)に誘われたんです。YMOをそんなに熱心に聴いていなかったのは、ギター中心の音楽を聴いていたからなんですよ。

フリッパーズ、コーネリアス、そしてYMO再び

高橋

コーネリアスの初海外はどうだったの?

小山田

僕の初めての海外ライブは98年、テキサス州オースチンで開催されているマタドール・レーベルのショーケース、S×SW(サウス・バイ・サウスウエスト)でした。『FANTASMA』(*17)以降、映像と演奏を同期させるライブを始めたんですが、あの時はクリックの音が外に出るし、映像はスクリーンにちゃんと映らないし、惨憺たる内容で落ち込みましたね。唯一の救いはお客さんの反応がよかったことぐらいで。

高橋

小山田くんの世代から、海外でのリリースとツアーに積極的なアーティストが増えたじゃない?

小山田

僕らの前にもボアダムスやピチカート・ファイヴが注目されていたし、90年代後半は日本のバンドが海外に出て行く機運が高まっていたのかな。日本人というだけでもの珍しく見える時代じゃなかったから、同時代的なインパクトを残したいとは思ってましたけど。

高橋

スケッチ・ショウ(*18)がロンドンでライブをした時も「YMO以来、日本のアーティストでいちばん衝撃を受けたのはコーネリアスだ」と言う人が多かった。それもツアーの成果だろうね。

小山田

『FANTASMA』のツアーがいちばんハードでしたね。向こうはショーが終わるのが遅いから、撤収が終わると夜中。ヨーロッパの夏フェスの時期はツアーバスの予約がいっぱいで、ひどいバスしか残っていなかったり。最近はずいぶん楽になりましたけど。

高橋

なんでそこまでやるの?野心のためじゃないでしょ?

小山田

経験ですね。欧米の音楽に憧れて音楽を始めて、実際向こうでライブをやってつかんだ手応えはやっぱり何物にも代え難いものがありますね。

高橋

僕も最初はコンプレックスから始まって、YMOの時は「俺たちの方が進んでいる」くらい強気だったけど、海外での経験は自分を成長させてくれたと思う。

小山田

そうですね。フリッパーズを解散した頃、親戚の縁で細野さんと一緒にすき焼きを食べたことがあるんですけど(笑)、細野さんのラジオに出た時の本番中に「今度スケッチ・ショウのライブでギターを弾いてくれないか」と言われた時は驚きました(笑)。

高橋

1人だと心もとないからってキーボードの堀江(博久)くんを紹介してくれたんだよね。

小山田

僕は自分のバンド以外にギタリストとして参加した経験がほとんどなかったから、勝手がまったくわからない。ましてや徳武(弘文)さんという凄腕のギタリストが一緒だったから緊張しましたね。それ以来、YMOの人たちとの付き合いが始まって……。

高橋

小山田くんはいい時代に我々と出会ったと思うよ。さすがにみんな大人になってたから。

小山田

最初は幸宏さんと細野さんから昔の坂本さんがいかに怖かったかとかさんざん聞かされて(笑)。

高橋

『BGM』の頃は3人でスタジオに入ったことはほとんどなくて、その張り詰めたテンションはアルバムにも反映されていると思うんだけど、スケッチ・ショウをきっかけに2人がまた親密な関係になったことが僕にとっては感動的だった。それがYMO再始動の弾みになったのは事実。

小山田

坂本さんの『WAR&PEACE』で『NEWS23』に出た時も、収録中に「今度HAS(*19)のライブでギター弾いてくれる?」って、細野さんが。タイミングが絶妙で、もうやるしかない(笑)。

高橋

それが細野さんの天才のたる所以(ゆえん)なんだよね。

小山田

僕はYMOや今回のオノ・バンドに参加することで、日本のロックの源流にあたる人たちと直に触れ合った実感はありましたね。僕らの世代とYMO世代は距離感がちょうどいいんだと思うんですよ。すぐ下の世代は共感できる部分と反発する部分があるだろうから、僕らくらいワンクッションあった方がいいんでしょうね。

高橋

僕も最近、けっこうドラムを叩くようになって、ドラマーとしてのピークはまだ来ていないような気がしているんだよね。

小山田

そういう話を聞くと、ミュージシャンとして心強いです。

高橋

古い音楽をノスタルジーでやるつもりはまったくないし、僕の音楽を若い世代がカッコイイと思ってくれないと意味がないからね。だから去年出たフジロックは、新鮮で面白かった。「ヤバくない?」って言ってる若い観客がたくさんいたらしいから。小山田くんもメンバーとして出てくれたね。

小山田

YMOの3人は今でも最前線にいて、音楽への情熱を持っている。それは今後の僕自身のモチベーションにもつながる気がして。

高橋

この前ツイッターで、「結局僕たちは、こうやって面白いことを死ぬまで続けていくんだろうね」とつぶやいたら、教授が「そんなの当たり前だよ」って。そしたら、「カッコイイー!」って書き込みがダダダーッと(笑)。

小山田

YMOのツイッターは縄跳びと一緒で、僕はまだどのタイミングで入っていいかわからないんですけど(笑)。

(高橋さんは2023年1月11日、誤嚥性肺炎のため逝去。享年71。)

ミュージシャン・高橋幸宏と小山田圭吾