50年のキャリアは、ピアノも置けない狭いステージから始まった
今回発売になる『Taeko Onuki Concert 2023』に収録された楽曲は、大貫妙子のキャリアを振り返るような、バランスのいいセットリストだ。
「いつもセットリストを決める際に、生バンドの演奏だけでは表現が難しくて、やむなく漏れてしまう曲が増えていくんです。『ピーターラビットとわたし』も、アレンジを変えて演奏していましたが、ファンの方はレコードと同じアレンジで聴きたいでしょうし。それで、当時のマルチテープを捜して、それを流しながら演奏する形を取ったのが2022年のライブで、昨年も取り入れています」
バンドメンバーは長年、ライブやレコーディングを共にしている仲間たちだ。「ツインドラムにしている理由は、パーカッションを必要とする曲がそんなに多くないことと、むしろドラムで少し複雑なリズム感を出すことの方が面白いというか。一人はハイハットだけに専念してもらうとか。ちょっと贅沢ですけど。
ピアノのフェビアン・レザ・パネさんは、とても長いお付き合いになりますが。シルクタッチで、音を奏でてくれる。森俊之さんは六本木のライブハウスで観た時に、ハモンドを弾いてらして、そのリズミックなタッチが素晴らしく、一緒にやりたいと私から声をかけました。
もう一人のキーボード網守将平さんも、ある時パソコンを立ち上げた際に、偶然かかった彼の曲を聴いて気に入りまして。音楽との出会い、人との出会いってそういうことが多いんです」
最初は狭いライブハウスから
大貫妙子のキャリアのスタートは、1973年に山下達郎らと結成したシュガー・ベイブだった。「最初の頃はピアノも置けないような狭いライブハウスが多く、山下くんがセンターで、左にギターがいて、私はキーボードですがステージが狭すぎて、幕で半分、姿が隠れるような感じに(笑)。ほとんど目立たなかったですね」
1987年からは「ピュア・アコースティック」という、小編成でのライブもスタートしている。「最初はサントリーホールの小ホールでの開催で、ホール側からお声がけいただいてスタートしたんです。私は声量がある方ではないし、バンド編成だと昔は今みたいにマイクもうまく使えなかったので、歌が聞こえづらいことがあったようです。
それで弦を中心にしたスタイルで一度やってみようと。初めてのことで緊張しましたし、今考えるとよくやったなと思いますけど。その後も続いているのは、歌を鍛えるには、弦カルの編成が良いと気づいたこともあります」
2016年には千住明の指揮と編曲で、東京ニューシティ管弦楽団と共演したアルバムを発表し、東京芸術劇場でのコンサートも開催。2021年にはサックスカルテットとバンドネオン奏者・小松亮太を加えた編成でのコンサートを東京オペラシティで行った。
2010年に開催された坂本龍一のピアノと大貫の歌だけで披露されたコンサートツアー『UTAU』も印象深い。「この時は地方も回りましたが、坂本さんのおかげでどこでもすごく歓待してくださって。普通じゃ手に入らないような地酒とか用意されるんですが、私は次の日に歌うから飲めないし、それが一番辛かった(笑)。
坂本さんはいわゆるバッキングのミュージシャンではないので。歌に合わせるということをしないので。“いや、そんなことはない!”と言うと思いますが(笑)。いざステージに出たら彼のテンポで弾き始めるので、私が合わせる感じで。でも、どのテンポで始めるかは、とても難しい(笑)。だからといって、喧嘩するわけでもないですし。そもそもライブって、そういうものです。今となっては懐かしい思い出ですね」
この先も前向きに
大貫妙子の音楽は、最初から確固たる世界が確立されている。だが、サウンドはフュージョン、ヨーロピアン、ブラジリアンなど様々な変遷を辿った。サウンドの移り変わりは、曲想から派生したものなのか。
「色々なジャンルの音楽を聴きますし。それに触発されて曲を書くので。アルバムもブラジル録音やフランス録音など、海外での録音は多かったですが。どこで録音しても、それがその時いちばん望む形なら、自分で曲も書いているので。私であることに違いはないので。ネイチャーマガジンの仕事を受けていた頃は、アフリカや南極に行って野生動物の観察もしていましたが。大自然の中にいると音楽って必要ないんですよね。色々、CDとか持参しましたが、聴かなかった」
ここ数年、盟友の坂本龍一をはじめ、キャリアを共にした多くのミュージシャンが鬼籍に入った。「やはり同年代の方が亡くなられていくのは、本当に寂しいです。でも、私は今、歌うことがやっと少し楽しくなってきたので、この先も前向きに続けていきたいと思っています」