教えてくれた人:柿添翔太郎(国立科学博物館 支援研究員)
標本道具の要となる昆虫針。その歴史は320年前の英国で始まった
「昆虫に針を刺して固定し、標本にする。この文化が生まれたのは18世紀初めのヨーロッパです」
昆虫の研究者で無類の虫好きでもある柿添翔太郎さんがそう話す。針を使えば繊細な虫の体に直接触れずとも扱えて、空中に固定すれば多様な角度から観察可能。破損を防ぎながらの長期保存も可能になったのだ。
「1702年に英国・ケンブリッジシャーで採集されたチョウセンシロチョウの標本が、針を刺した形で現存する最古の例でしょう。この手法は18世紀前半の欧州で、すでに確立されていました。以降20世紀初頭まで、昆虫標本趣味の中心にいたのは貴族たち。英国には王室御用達ブランドの昆虫針もありましたし、針のヘッドにダイヤモンドやルビーを付けて楽しむ富豪もいたそうです」
日本では1866年、博物学者の田中芳男が、舶来の留め針と桐箱で作ったものが最初期の針刺し標本だ。
「虫捕御用(むしとりごよう)という幕府の任務で、パリ万国博覧会に出品する標本を作ったんです。海外からも絶賛の声が相次いだ昆虫標本は、残念ながら万博終了後に現地で売却されて所在不明。見つかれば日本の昆虫標本史における大トピックだともいわれています」
そんな歴史もあって、昆虫針の製作はヨーロッパが先行。大阪の蛾類研究者・木下聰一郎の研究によれば、19世紀から作られていたのは、鉄や洋銀(銅やニッケルの合金)の針だ。
「その後の西欧の主流は、上の写真の下段左のような真鍮(しんちゅう)ヘッドを付けたもの。1960年代以降は、樹脂のヘッドが付いたナイロンヘッドと呼ばれる針がメジャーになりました。私が収集した古い針を見ると、ヘッドの付き方にブレがあるものが多い。職人が一つずつ手仕事で付けていたのかなと想像しています」
さらに、遊び心あふれたパッケージも昆虫針の魅力だと柿添さん。
「絵柄にもグラフィックにも個性があって、集めがいがあります。蝶の柄がよく見られるのは、ヨーロッパで圧倒的に蝶の蒐集家が多かったからでしょう。とりわけ秀逸なのは昆虫針の生産も多いチェコのもの。アールヌーボー風のデザインも多く、ちょっとしたアートですよね」
デザインにも趣向を凝らす。それは昆虫針以外の道具にも言えること。
「例えば昔から作られてきたのが、革表紙の本を模して背表紙まで付けた書籍型の標本箱。愛好家や研究者にとっては毎日のように眺めるものだから、凝りたくなる気持ちはわかります。使い勝手の良さは大切ですが、それだけじゃない。デザインも機能も追求しがいがあるんです」