「スローシネマ」とは、2000年代に、仏米などの映画批評家から提唱された比較的新しい概念だ。もちろんスローと言っても、作品自体がそうした印象を与えはしても、全編スローモーションで撮られた映画という意味ではない。
むしろ、ファストフードに対するスローフードのような、昨今のスロームーブメントに呼応する意味合いでもつけられた呼び名だろう。情報量をこれでもかと詰め込んだ、目まぐるしい展開のハリウッド映画に対するアンチテーゼというか。それもあって、スローシネマは主にヨーロッパやアジアで発展を遂げてきた。
スローシネマの特徴の一つに、カット数の少なさが挙げられる。2時間の尺を持つハリウッド映画では、かつては平均カット数が1000といわれたが、現在では2000~3000の作品も増えてきている。それに対し、スローシネマの代表格タル・ベーラの『サタンタンゴ』は、7時間を優に超える長尺なのに、カット数はわずか150ほどしかないのだ。つまりそれは、1カットの持続時間が長いことを意味する。
そう、スローシネマには長回しの映画が多い。その結果、そうした作品は自ずと長尺になる。もちろん、フィルム撮影の時代にも、『サタンタンゴ』のような長尺の映画はあったが、フィルムでは1回の撮影で10分程度しか回せないのに対し、デジタルは、原理的には無限に撮影し続けることが可能なので、2000年代以降、ラヴ・ディアスのように、緩慢な語り口の8時間超えの映画を何本も撮る監督も出てくるようになった。
また、スローシネマは、情報過多で刺激の強いハリウッド映画へのカウンターから、低刺激のミニマルな作品を指向する傾向もある。例えば、色彩はモノクロ、台詞(せりふ)も少なければ、音楽もあまり入らないというような。カメラも派手な動きを見せず、同じ長回しでも、初期の無声映画のように、固定カメラで撮られた作品も増えてきた。それは、眠る男を8時間もの間ひたすら撮り続けただけのアンディ・ウォーホルの『スリープ』のような実験映画からの影響もあるかもしれない。
日本では最近初公開され話題になったシャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』は、ある意味その退屈極まりない撮影法を逆手に取っているのが興味深い。アケルマンは、ハリウッド映画が物語を効率的に語るために省略してきた細部の一つである「家事」を、定点観測的に延々と映し出す。
そこで観る者は否応なく眠気を催すのだが、だからこそ、それまで主に女性が担わされてきた家事労働が、いかに単調で精神的苦痛を伴うものかを暴き出し、フェミニズムという現代的なテーマを映画に持ち込むことに成功したのだ。それは、アメリカ映画にあっても、インディーで活躍するケリー・ライカートの作品には受け継がれている。
スローシネマがもたらすのは夢見心地か、酩酊感か
一方、スローシネマでも、カメラが動くことはある。それは、アンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』のような、歩く速度に近い緩やかな動きで、近作ならビー・ガンの『ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ』もそうだ。
カメラがゆったり捉える画(え)は、主人公たちの視覚と一体化し、彼らが、夢とも現(うつつ)ともつかない世界をさまよう中で、いつしか観客も彼らと同化し、映画の世界に深く没入していってしまう。そんな酩酊感は、時に睡魔も呼び寄せ、私たちは抵抗の甲斐なく、心地よい眠りへと誘われるのだ。ハリウッド映画を観ていて、そんな内省や瞑想する瞬間を与えられることがあるだろうか。
このように、スローシネマと言っても様々だ。とはいえ、観ていて眠くなる点では共通しているとも言える。あえてそれを逆手に取れば、眠れぬ夜のお供には、スローシネマが最適解なのかも?
Point1:没入
観客が映画に没入するのは、何も物語のためばかりではない。緩やかなカメラの動きを見つめている間に、観ている我々も映画の世界に深く分け入ってしまうことがあるのだ。その半覚半睡のような状態こそ、至福の映画体験と言えるのではないだろうか。
Point2:ミニマリズム
モノクロだったり、カメラが動かなかったり、台詞や音楽があまり入っていなかったり、プロの俳優が出ていなかったり。そんなハリウッド映画とは真逆の、華美を排した水墨画のような映画でも、我々に刺激的な映画体験をさせてくれることはあるのだ。
Point3:緩慢
スローシネマの極意は、その名の通り緩慢さだ。それは、ハリウッド映画のめくるめくテンポや編集に慣れた目には鈍重で退屈にさえ映ることもあるだろう。しかし、スローネスとは、我々に時間をどう捉えるかについて意識の変容さえ迫るものなのだ。
photo:Aflo / Janus Films / Photofest / Zeta Image