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成田悠輔『積年の孤読』:読まなくて困らない番外編 #1

身の回りのあれこれを独自の視点で解読していく、『BRUTUS』連載「積年の孤読」。ここBRUTUS.jpでは、本誌に収まりきらなかった考察を、番外編としてひっそりと記していく。今回は、『BRUTUS』No.1011「夏は、SF。」で掲載した「vol.12 人格について」の番外編。本誌で綴った「ボタンひとつでキャラも価値観も切り替わる人格のインターネット」について、さらに考察していくはずが、やつ当たりのようになっていく。by成田悠輔

photo: Kenta Sawada / text: Yusuke Narita

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あなたと私の動機不明な欲望に

泣き言から入る。締切を猛烈に過ぎている。いつもそうだ。どうにか書こうと、せっかく何もしないために来たはずの温泉宿でPCを開く。畳の部屋にはふだんの生活にはない背の低い背もたれ椅子。不慣れな場所には悪魔が待つ。背もたれについさっきスネをドカンとぶつけて三センチくらい肉がえぐれた。白い脂肪からにじみしたたる血の流れに駆りたてられ、どうにかこの文章をひねり出している。

でもなぜ文章を書くのか?現実逃避の愚問だが、現実再考の良問でもある。書く理由が見つからないからだ。スネが痛いときには特に。ウンコみたいな文章は世の中に溢れているが、文章はウンコみたいに放っておけばたまらず勝手に出てくるものじゃない。書こうとしてはじめて書けるものだ。

かといって書くことは生活のための賃労働でもない。稼いで生きるために仕方なくやるものではない。職業作家でもない私の場合は。収入的には趣味的、というか経費的なあれこれを考えるとたぶん赤字である。そんでもって自分は極端な遅筆。たった千字の短い原稿を書くにもだいぶ覚悟と時間がいる。

さらにとどめの一撃が待つ。今の世の中、まとまった文章はほとんど読まれない。動画や音声でふわっと語った方が一桁か二桁は多くの人に届く。そうなると、ますます書く理由がなくなってくる。

だから私にとって書く理由は一つだけ。なぜ書くのかグチグチ悩み考えるためだ。動画や音声でおしゃべりするのに、なぜおしゃべりするのかうんうん考え込むことはほとんどない。放っておけば時間は流れ、バイデン大統領みたいにボケっと口を動かしてれば尺が埋まる。

気づけば終わり、反省するほどの中身もないので、終われば忘れるだけだ。私は自分がしゃべった動画や音声を見たり聞いたりすることもない。シンプルで排泄的だ。

その点、書くことはだいぶ違う。本当に書いている時間より、何も書けずに流れる時間の方が長い。書こうとして書けない時間が何時間流れようと手元には何も残らない。なぜ時間を無駄にしているのか考えて辛くなる。

書き終わったあともゲラが送られてきて、見返すとこの文章はただのウンコなのではないかと辛くなる。その過程が拷問的で尊い。もはやセルフSMなのかもしれない。

そんなこんなで、紙のBRUTUSで「積年の孤読」なる連載をしている。何の連載?書いてる私もいまだによくわかっていない。紹介文にはこうある。「未知と既知がコーヒーとミルクのごとく混じりかけるカフェラテ的境界をさまよいながら。」。ダメだ。ますますわからない。

仏像と人工衛星、路上で吐いて倒れたこと、遺跡と日の出、死者が奏でるコンサート、ゲームとウィスキー、人類史の起源と終焉……降り積もる経験の粒を深刻めいた文体で読み解く。万物批評?というと偉そうすぎる。雑食感想、というかごちゃごちゃとくどい日記くらいのつもりだ。

目

最新号ではこんなことを書いた。というか書こうとして字数が尽きた。なんで21世紀になってまで字数とか行数とかウンコみたいな制約に縛られなくちゃいけないのか。沸々と怒りが湧いてくる。なぜ書くのか悩み考えるのはいつもだが、紙の雑誌や新聞に書くと特に悩み考える。だから、紙の雑誌に書くときが一番ピュアに書いている。一番深く悩み怒っているからだ。

なにに、どこに書くかで人格が変わる。字数の制約のないこの文章では「ウンコ」というウンコみたいな単語を連発して貴重なスペースをウンコ扱いしている自分のウンコさに驚いている。

何のフォントで書くかでも人格が変わる。ほぼできた文章をもっと良くしたいとき、自分が嫌いなフォントで表示してみると、メラメラと敵意が立ち上がる。そのまま叩きまくれば文章をもう一歩先へ進化させられる。そして今では、何のAIと相談しながら書くかでも人格が変わる。

だから私たちはもう人工多重人格者である。そうして、人格は着込んでは脱ぎ捨てる異種競技のユニフォームみたいな存在になる。アプリのように気軽に作れて更新できるように。

そして、人格者の価値は暴落する。性格のよさや気品はダウンロードすればいいのだから。すでにほぼすべての人間よりLLMの方がよほど人格者である。逆に価値が上がるのは、見たことがないような変人、何を考えてどう感じているのか掴めない、ちょっとうっすら寒気がしてしまうような不審者的な人格たちだ。

そうした新規な人格たちが模造され、世に放たれていく。彼らが勝手に仲良くなり、罵倒し合い、あるいは理由もなくただ同居し群れをなす。ヒエラルキーや優劣に無頓着でマウント合戦に興味がなく、敵と友、関係者と部外者を区別しない連中だけからなる村など、見たことのない奇怪なコミュニティが生まれる。新しい交換様式と霊の絶えざる探索である。

模造し実験する限界費用がほぼゼロになった交換様式と霊はカンブリア爆発を起こし、家族・国家・市場といった典型的な社会形態からの無数の逸脱が起きる。万物の終息がその黎明にもまさる多様な社会形態の坩堝になる。

これをいきなり読んだ方はたぶん何のこっちゃと思ったことだろう。それがいい。書く私がなぜ書くのか思い悩む反対車線では、読むあなたがなぜ読むのか思い悩むのが自然だからだ。こんな時代に活字を、しかもこんなネットの片隅に漂う怪文書を読むあなたは、なぜ読むのだろうか?

あなたと私の動機不明な欲望に幸あれ。そのために次号(さらには次々号)の紙のBRUTUSでは話が旋回する。叶恭子と3Pの話をする。そう、あのピンクの叶恭子で、私とあなたと第三の誰かが交わる3Pだ。物好きな方は次号を買って読んでほしい。とは言わない。立ち読みくらいでちょうどいい。そうして編集者や物書きのビジネスが厳しくなれば、私たちはますます重苦しくなぜ書くのか読むのか悩み考えることになるからだ。

なんていうとBRUTUSの人たちに怒られそうなので、ここらへんにしておこう。ネットは広大で、22世紀まではまだちょっと時間がある。またいつかどこかで!

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