羽海野チカ『ハチミツとクローバー』
「人が恋におちる瞬間を/はじめてみてしまった」
何年経っても忘れられないセリフがある。いや、セリフだけではない。あるコマの表情や情景、それを読んだときの季節や部屋の温度……そういったものが、ふとしたきっかけでにわかに心を駆け巡る瞬間がある。そしてその味わいは、そのたびごとに変化してゆくのだ。
ハチミツとクローバー。甘くて苦いこの物語について、今回は語ってみることにする。
都内の美大を舞台に描かれる、大学生たちを中心とした群像劇である。アニメや映画、ドラマとメディアミックス展開もされているから、何かしらの形で触れたことのある方も多いだろう。
6畳プラス台所3畳フロなし、大学まで徒歩10分のアパートで共同生活を営む美大生・竹本は、ある日仲のよい教員・花本のいとこの娘である花本はぐみと出会う。小柄で愛らしい雰囲気だが凄まじい才能を持つ彼女に、彼は無意識のうちに恋に落ちるのだった……。
語りたいことが多すぎて、文字数がぜんぜん足りなさそうである。
まず、今回読み返して率直に思ったのは、作中では花本先生(以下修ちゃん)はおじさん扱いされているけれど、おそらく今の自分とほぼ同い年なんだよな……ということ。
そりゃまあ、はぐちゃんは初登場時18歳だし、そもそもメインの舞台は大学なのだから、当然といえば当然である。がしかし。
物語開始時、竹本くんも19歳、先述した青春スーツをがちがちに着込んだセリフを言ったおしゃれメガネの真山も22歳、その真山に思いを寄せるあゆこと山田あゆみも21歳、天才変人アーティストにして超絶イケメンの森田先輩ですら24歳。
確か最初にハチクロを読んだのは小学生のころだったはずだが、あのころ思い描いていた30代はもっと大人で、だから修ちゃんももっと年上だと勘違いしていた。
けれど、実際33歳になってみると、想像よりもずっと子供だし、達観していないし、うまくいかないことばかりだ。
そう考えれば、修ちゃんの序盤のあの落ち着きのなさもさもありなんといえる。あるいは、そんな彼がときおり見せる落ち着いたまなざしを、もしかしたらぼくも、気づかぬうちに親戚の子に向けているのかもしれない。
想像との乖離ということでいえば、作中大学のモデルになっているのは武蔵野美術大学とのことだが、その他にも主に東京都杉並区の地名が頻出する。
実家の山梨で読んでいたころは、東京という場所そのものがファンタジーのようなものだったから、何が創作で何が実際の場所なのか、深く考えることはなかった。
だが今回、エピソードのそこかしこにリアルな東京が描写されているのだとわかり、なんだか不思議な気持ちになった。初めて抱く感覚なのに、なぜか懐かしいような気がした。新しく帰る家の玄関で、ただいまと思わず口にするような、くすぐったくも心地よい感覚。
小、中、高、大、20代、そして30代の今と、何度も読み返している作品だ。そのたびごとにかなり違う味わいを感じられる、重層的な魅力を持つ作品である。
とりあえず、妹たちに読み返した旨を報告したところ、「今読み返したら推し変わるかな」とのことであった。ちょっと笑って、たぶん変わると思うよ、と返信する。
ちなみにぼくは以前は真山と野宮匠(真山の先輩であり、スマートな社会人)が好きだったが、今回は断然森田先輩が好きになった。女性だとリカさん(真山がずっと片思いしている大人のお姉さん)が圧倒的に好きだったが、山田さんの素敵さにも気づけた。
好きも苦手も心地よいも苦しいも、さまざまな気持ちを引き出してくれる『ハチミツとクローバー』。
ぜひ皆さまにも読んでいただき、語らいたいものである。
え、一番好きなキャラクター?
それはもちろん、ローマイヤ先輩です。