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西城秀樹列伝!今なお燦然と輝き続ける“永遠のスター”

ポップアイドルにしてロックスター。相反する離れ業をやってのけたスター、西城秀樹が遺した音楽を私たちは今日も聴き続ける。

text: Kunihiko Shino

「ヒデキ~♡」。ちびまる子ちゃんの姉さきこも夢中になった西城秀樹。1970年代から80年代の歌謡界ど真ん中で活躍したシンガーである。

郷ひろみ、野口五郎とともに「新御三家」(初代の御三家は橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)といわれた“アイドル”だったが、現在に至る日本のロックボーカリストの系譜に絶大なる影響を与えた重要人物であることはご存じだろうか。

例えば、星野源が、はっぴいえんどに端を発する日本のポップス系譜の先端にいるとするなら、常田大希は、ヒデキを祖とする日本のロック系譜の先端にいる、と言えよう。

一つ前の世代に目を向ければ、BOØWYの氷室京介、TMネットワークの宇都宮隆らは、確実に「ヒデキの申し子」。さらには、サザンオールスターズもMr.Childrenもヒデキが原点だったと言っても過言ではない。
BOØWYの布袋寅泰は、西城秀樹逝去の時に、SNSにこう投稿している。「御三家時代のころ毎日テレビで観ていました。ロックを感じる人でした」

2018年5月16日、彼の63歳の早すぎる訃報が人々に衝撃を与えたことは記憶に新しいが、今、彼の音楽が再び熱い注目を集めている。181㎝の長身に甘いマスク。ハスキーな声、明るい性格。
“ヒデキ”の愛称でトップアイドルへ駆け上がった彼は、日本の歌謡界に革新的なスタイルを持ち込んだパイオニアだった。

シンガー・西城秀樹
1974年10月20日、郵便貯金ホールでの様子。妖艶な衣装も似合う。写真提供:TBSテレビDVD『THE 50 HIDEKI SAIJO』より

アスリート並みの肺活量から繰り出されるパワフルなロングトーンやビブラート、長い手足やマイクスタンドを使ったダイナミックなパフォーマンスは、以降の日本のロックボーカリストに多大な影響を与えた。これは彼自身がジャズやロックに精通していたことも大きい。

1955年4月13日、広島の米軍基地近くに生まれた彼は幼少期から洋楽に親しみ、小学5年で兄とバンドを結成。ドラムスを担当する。
高校1年の時にスカウトされ上京。連日血のにじむようなボイストレーニングを積み、ステージで激しく動いても音程がブレず同じ声量で歌える喉を手に入れる。憧れの人は米国のシンガー、ジャニス・ジョプリンだったそうだ。

デビューの翌年、73年。作詞・たかたかし、作曲・鈴木邦彦による「情熱の嵐」(73年)が初のベストテン入りを果たす。同曲は“君が望むなら”“ヒデキ!”というコール&レスポンスが話題になったが、鈴木は観客参加型を意識し、あらかじめ歌詞に声援の入る隙間を作っていたという。

ドラムス経験からビートの概念が身についていたヒデキはこれを完璧に歌いこなし、「激しい恋」(74年)ではブラスロックスタイル、「傷だらけのローラ」(74年)ではヨーロピアンなサウンドに挑戦。“絶唱型”と呼ばれた初期のスタイルを確立する。

74年8月、大阪球場で開催した日本人ソロアーティスト初のスタジアムコンサートに1万7000人を動員。ファンに呼びかけて懐中電灯を持参してもらったことが、のちの応援グッズの定番・ペンライトの発祥となった。

さらに75年7月に富士山麓で開催した日本歌謡史上初の大規模野外コンサートでは、大型クレーンで吊り下げたゴンドラに乗って地上高くから熱唱。こうした体当たり的な演出も彼が始めたものだ。

さらには79年8月の後楽園球場公演では雷鳴とどろく豪雨の中、キング・クリムゾンの「エピタフ」を熱唱(ライブアルバム『BIG GAME'79』に収録)。感電の危険も顧みず、情感を込めて歌う姿はファンの間で伝説となっている。

シンガー・西城秀樹
1980年7月18日、後楽園球場での野外コンサート。雨に打たれ、マイクスタンドを操る姿は、まさにロックスター。

数ある代表曲の中でも、79年「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」はTBSの音楽番組『ザ・ベストテン』で9週連続1位を獲得し、同番組唯一の満点“9999点”(!)を記録。
ディスコサウンドに乗せた青春賛歌な日本語詞、両手を大きく使ったY.M.C.A.の振りは40年以上経った現在もあらゆる世代に親しまれている。

年齢とともに表現の幅を広げていったヒデキは静かなバラードでも魅力を発揮した。
作詞・阿久悠、作曲・馬飼野康二による「ブルースカイ ブルー」(78年)は許されぬ相手との愛と別れを歌った楽曲だが、阿久は当時23歳の彼がいくつになっても歌える歌をと思い、この詞を提供したという。

また、アルバムでも優れた作品を残したアーティストであり『ファーストフライト』(78年)では、ここ数年世界的なブームとなった“シティポップ”の源流であるアメリカ西海岸サウンドをいち早く取り入れ、うち6曲は自身による作曲だ。

ポップアイドルにしてロックスター。相反する離れ業をやってのけたスター、西城秀樹が遺した音楽を私たちは今日も聴き続ける。