ガンダーは、日常生活で気に留めることすら忘れているあたりまえの物事への着目を出発点として、オブジェ、インスタレーション、絵画、写真、映像など多岐にわたるジャンルで作品を発表している。コンセプチュアルと言われることも多いが、実際の作品を前にすると、ユーモアたっぷりの仕掛けに思わず顔がほころんでしまうはず。
展示室に入ると、薄汚れた壁に等身大の人物像が2体。モノリス的なキューブが一列に並んでいる。キューブは《ウェイティング・スカルプチャー》というシリーズ作品。LCDのプログレスバーは、秒ごとに変化している。ハンドアウトを見ると、それぞれ「イギリス人がシャワーを浴びる平均時間」とか「桜が開花する平均時間」など、わりとどうでもいい(失礼)トピックに要する時間を刻んでいるらしい。
同じ部屋には、ステンレスの巨大な彫刻もある。これは1919年にジョルジュ・ヴァントンゲルローが発表した〈立体の均衡〉という彫刻のステンレス版らしいのだが、タイトルには《編集は高くつくので》とある。
《最高傑作》《あの最高傑作の女性版》と題された作品では、壁に埋め込まれたマンガ風のかわいい目(と眉毛とまつげ)はアニマトロニクス(生き物を模したロボット)になっていて、観客の行く方に視線を向ける。……とここまで読んでお気づきかもしれないが、この展覧会で観客はハンドアウトと作品を交互に見る場面がとても多いのだ。タイトルを読んでクスッとしてしまったり、「ここにそんな意味が込められてたの?」と、気づいたり。
ガンダーの幅広い制作活動に一貫しているのが、「見る」ということへの考察だ。一見するだけではわからず、展覧会という、集中して「見る」場でなければ素通りしてしまうものごとに、あえてフォーカスした作品は、私たちにさまざまな問いを抱かせる。視点を変えることで初めて気づく……というのは日常でもよく言われることだが、ガンダーの作品にはそれぞれに「?」や「!」となるトリガーがある。
また、無造作に置かれた椅子の上には、本物と見間違うような蚊が一匹止まっていて、今まさに最期の時を迎えるかのように痙攣している。作り物と思って動いているのを見るのは面白い。でも、これが本物の蚊だったら人は容赦なく叩いてつぶすだろう。蚊は人間に害を与えるし、小さな虫を殺しても罪悪感は少ない。ただ、こうやってじっと(人工の)蚊を見つめていると、なんだか当たり前と感じている「蚊は見つけたらすぐ殺すもの」という前提自体に疑問が湧いてきてしまう。
そんなことを蚊一匹から考えてしまうのは、ガンダーの世界にまんまとはまってしまった証拠。意外なもの同士を結びつけ、情報を部分的に隠蔽し、ユーモアをまじえて「そもそも」を考えるきっかけをつくるのは、ガンダーの作品の真骨頂だ。
とりわけ目を引くのが、ネズミのインスタレーション《2000年来のコラボレーション(予言者)》だ。白い壁の下に、小さな穴が開いていて、そこから白いネズミが顔をのぞかせている。よく見ると頭をちょこちょこ動かしながら、何かを話している(映画『独裁者』(1940)のラストでチャップリンが行った演説をもとに、ガンダーが書き替えたテキストなのだそう)。見た目のかわいらしさに反し、今の人間社会を批評する内容でびっくりするけれど、これもまたガンダー流の脱臼なのだ。
今回の展覧会では、ガンダーの新旧さまざまな作品を組み合わせながら、大きな展示室がひとつの作品として創り上げられている。なかには、展示室を飛び出し、荷物を預けるロッカーに石を並べた作品も。これらの作品ひとつひとつには、ガンダーが制作活動の初期から持ち続けてきた関心──時間、お金・価値、教育、よく見ないと見えないもの──が込められている。ヒントを探して散策するゲームのようなわくわく感で展示を巡るうち、観客の頭は柔らかくなり、気づけばものごとの本質を考え始めている。その思考のうちに、展覧会のサブタイトルでもある「われらの時代のサイン」が浮かび上がってくることだろう。
なお、上階で開催されているのは、今回の個展に併せて再展示することになった「ライアン・ガンダーが選ぶ収蔵品展」。こちらもお見逃しなく。