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扉を閉じたままのイスラエル館。ルース・パティールが現代社会に投げかけるメッセージとは?

今年開催されたヴェネチア・ビエンナーレで、イスラエル館が急遽閉館した。アーティストとキュレーターによる“静かなる抗議の場”となったイスラエル館は、平和の訪れを静かに待ちわびている。今回、ブルータスは幸運にも、イスラエル出身のアーティスト、ルース・パティール本人への特別取材に成功。閉館の真相と、謎に満ちたこのインスタレーションの実態に迫る!

text: Wakapedia

イスラエル館の静かなる抗議と祈り

ヴェネチア・ビエンナーレは、常に世界の緊張を映し出す鏡のような存在であり、今年は、イスラエル館がその中心にあった。ハマスとの戦争を巡る議論が高まり、多くのアーティストが展示禁止を求める署名活動に参加。しかし、ビエンナーレの主催者は、芸術の自由を重んじ、イスラエルの参加を支持していた。

パティールは語る。「2023年9月7日にイスラエル館のアーティストへのノミネートを知らされ、何年も前からこのプロジェクトを夢見ていた私はとても興奮しました。しかし、10月7日に、パレスチナ暫定自治区のガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスとイスラエルの間に悲劇が起きました。恐ろしい戦争が始まり、そのショックにより私の夢は打ち砕かれ、悲しみに変わりました」。この状況を変えられると信じて、毎週のように戦争反対のデモに参加したそうだが、悲劇は大きくなるばかりだった。

パティールは、これ以上世の中で起きていることに目を瞑り、いつも通りであるかのように行動することはできないと感じたという。現状への悲しみと苦しみ、アーティストとしてビエンナーレに参加するという長年の夢との間での葛藤の末、ルース・パティール、そして、キュレーターのミラ・ラピドット、タマール・マルガリットは、展示を一時的に中断することを決意した。そして、「停戦と人質解放が合意された場合にのみ展覧会を再開する」というシンプルで控えめな言葉のみを掲げた。

「そうすることで、私たちと一緒に展示の公開を待ってくれるよう、人々に求めたのです」と彼女は言う。

そこには、パビリオンの扉が開くことを願う人々が、同時に停戦を願い、彼女たちと一緒に祈ってほしいという願いが込められている。

彼女たちの行動は、武器ではなく、創造力を使い、私たちの生きる現状に抗議し、人々に考える力を与えるアートの在り方を象徴している。この祈りが届き、平和の訪れとともに、イスラエル館が一日も早く観客を迎え入れることを心から願うばかりだ(ヴェネチア・ビエンナーレは2024年11月24日まで開催)。

ビエンナーレ開催当日にイスラエル館のガラス張りのドアに貼られた閉館の知らせ
ビエンナーレ開催当日にイスラエル館のガラス張りのドアに貼られた閉館の知らせ。シンプルな張り紙にはアーティストとキュレーターたちの平和を願う祈りが込められている。
photo : Lorenzo Dalbosco

ルース・パティールの「(M)otherland」とは?

ルース・パティールの展示「(M)otherland」は、紀元前8世紀から6世紀の古代レバント地方で発掘された女性の置物と現代技術を融合させたビデオインスタレーションだ。

「(M)otherland」の制作現場のルース・パティール。
「(M)otherland」の制作現場のルース・パティール。
photo : Pedro Wazzan

イスラエルとハマスの戦争を背景に制作された新作「Keening」がパビリオンに訪れた観客に感情の共有を促すところからスタートする。「私が感じていた悲しみや怒りを、観る側も感じながら空間に入ってもらいたかったのです」とパティールは言う。

作品では、3Dアニメーションとモーションキャプチャー技術を駆使して、普段は目にすることのない古代の女性の姿に動きと命を吹き込んでいる。手足の欠けた彼女たちが、映像の中で活動的に動き、悲しみと怒りを表現しながら街を行進する。これらの姿は戦争と失われたものの長い歴史を生き抜いてきた女性たちの苦難を表している。

「Keening」2024、(橋) のワンシーン。
「Keening」2024、(橋)のワンシーン。古代の女性の置物とCGの技術を組み合わせ、現代の街に出現させることで、時代を超えた普遍的な女性の苦難を追求している。
ルース・パティールとブレイヴァーマン・ギャラリー(テルアビブ)提供

展示のタイトルにも選ばれた、クライマックスを飾る「(M)otherland」は、パティールが自身の卵子凍結の経験からインスピレーションを受けた作品だ。そのプロセスをビデオアートに昇華させ、古代の女性像を主人公に据えた物語を展開する。

現在プレスリリース上で公開されているビデオの一部では、卵子凍結の過程、医師との対話、診察の様子が描かれるが、どこか違和感を受ける。それは、画面に映る主人公からは、期待の感情が感じられず、むしろ機械的に淡々と決められた手順をこなすだけの医師の無感情さが目立つからかもしれない。

これがアーティストの意図するところだろう。「(M)otherland」は、卵子凍結という新たな女性の権利が抱える複雑さを明らかにし、仕事と出産の間で揺れる女性たちへの社会的圧力を問題視し、考えるきっかけを与えている。

「Motherland」と「Other land」

日本をはじめとする多くの国では、卵子凍結はまだまだ高額の費用が必要とされることが一般的で、一部の女性のみが手を伸ばせる医療。しかしイスラエルでは国が卵子凍結を推奨していて、30歳以上の未婚女性にはその費用を支援するという、数少ない国の一つだ。

ユダヤ教において、ユダヤ人のアイデンティティは母親を通じて受け継がれるとされる。ユダヤ人国家を守り継承するためには、ユダヤ人である女性が子供を産む必要があるということだ。「Motherland」はユダヤ人にとって「祖国」、つまりイスラエルを指す言葉でもあるのだ。

一方で、「(M)otherland」は、“それ以外”を指す「Other land」のダブルミーニングを持つ。それは、イスラエルにおける帰属意識と社会的期待との間に生じる疎外感、自由を求める「Other land」への切望を表現しているように思える。

ルース・パティールもまた、この国家の理念と、生殖に関する権利の間で葛藤した女性の一人だ。2019年、彼女はがんリスクを高めるBRCA遺伝子変異と診断された。医師に生殖器を摘出することを勧められたが、その前に全額国費で不妊治療を受けることを選択し、卵子凍結を行うことになった。

その半面、「私は独身で、母親になりたいかどうかも確信が持てませんでした。しかし、イスラエルではそのような選択ががなかなか難しいのです」と彼女は胸の内を明かした。

「母親であり、かつ成功することは、依然として難しい。女性は男性中心の社会秩序に縛りつけられているのです」と彼女は指摘している。

出産は多くの女性が選択を迫られる普遍的テーマだ。ルース・パティールは出産に対しての自身の答えが分からないまま卵子凍結を選んだ。その経験から感じ取った感情や疑問をアートに反映し、現代社会を生きるすべての人々に考えるきっかけを与えるというのが、彼女なりの表現に繋がったのかもしれない。

女性が自分自身の価値観に基づいて、母親になるかどうかを決めることができる社会や、女性の多様な生き方を認め支援する社会への、願いと希望が込められているのかもしれない。

「(M)otherland」の作品の前で話すアーティストとキュレーターたち。
「(M)otherland」の作品の前で話すアーティストとキュレーターたち。
photo : Tal Nisim