扉を開けて入ってきた人が
出るときは笑顔になるのが理想。
盛岡はスターバックスが中心部から撤退せざるを得なくなったほど、個人経営の喫茶店が人々に深く愛されている街だ。一関出身の熊谷拓哉さんが盛岡へ移り住むきっかけは、図書館で読んだ一冊の雑誌だった。
「そこに盛岡の〈機屋〉というコーヒー店が載っていて、見出しに“開店直前に2トンの豆を持っていた”と書いてあった。何だそれはと思ったんです。
当時はコーヒーのことをぜんぜん知らないから、焙煎した状態の豆しか思い浮かばなくて、オールドビーンズなんて想像もつかない。悪くなるだけじゃないかなと。同時に、どんな考えでやっているのかに興味が湧いたんです。それで〈機屋〉へ月に何度か、コーヒーを飲みに行くようになり、そのうちに働くことになりました」
抽出や焙煎の基本的な知識を得てから、後は自分でどんどんつくって深めていくしかないと考えるようになり、震災も一つの契機となって、2011年の暮れにこの店をオープンした。
「全体の席数が10席でカウンターがあるというのは最初から決めていました。1人で回せるギリギリの数だし、10席なら満席でも距離が保てるかなと思って。
いまは1人でいらしたお客さんはだいたいテーブルに座り、話したい人はカウンターに座ります。ぼくは一見、寡黙に見えるらしいのですが、話しかけられたらしゃべるというタイプなんで」
熊谷さんは自分の店をコーヒー屋と考えている。そう呼ぶだけで入ろうとする側に少しだけ躊躇させる何かがあるからだという。とはいえ、コーヒーの味についてわかっていることを求めているのではない。
「コーヒーの味は、あくまでぼくが個人的に追い求めるものがあるということで、お客さんにはコーヒーを飲んで何か満たされた気持ちになってほしいだけです。豆はその季節に飲みたいものを6種類くらい。
常に何から何まで取り揃えておかなくてもいいかなと思っています。お客さんには中に入った時点から、好きなようにしていただきたいし、出ていくときには、入る前よりも少しでも楽しい気分になってくれていたら嬉しいですね。
喫茶店に行く人がいっぱいいれば、ぼくはそれでいい。今日はこの店の気分だなと、使い分けてもらえばいいんです」
窓から入る光と白い壁。〈六月の鹿〉の明るさと軽さは、コーヒー店という言葉が喚起する重々しさとは遠く、気持ちが良い。