案内人・澤部 渡
ゲスト・山崎ゆかり
メジャーデビューから自主レーベル設立へ。空気公団が経験したゼロ年代の音楽の届け方の変化
山崎ゆかり
1990年代の終わりに、音楽の見せ方がこれから変わっていくぞという気がしていました。写真集『1999 空気公団』【A】を作り、ひと区切りしたときでもあったからかもしれません。例えば、2001年にアルバム『融』を収録するときは、アナログかデジタルか方法を選べたんです。アナログの終わりとデジタルの始まり、という狭間の時期でもありましたね。
澤部渡
見せ方、聞かせ方という意味では、当初はほとんどライブをやっていませんでしたね。
山崎
当時は人が前に出るバンドが多かった。でも、音楽を前に出したいと思ったんです。主役は聴き手で、そこに音楽があって、後ろに奏者がいるというイメージです。バンドといえば、結成したらライブをして、対バンをやって地方に行って、ツアーして……というお決まりのルートがありますよね。そうじゃないものをやりたいし、できるはずだと。
90年代にはサニーデイ・サービスのライブに行っていて、同じレコード会社のミディからリリースしたいと思ったときもありました。結成したときは、まずカセットを全国のお店に置いてもらったんです。レコード店では、渋谷の〈ゼスト〉【B】や名古屋、京都、福岡にも。喫茶店や本屋にもお願いしましたね。
澤部
リスナーはバンドの存在からではなく、音楽から知るんですね。
山崎
カセットを置いてくれる喫茶店には、大抵ファンジン【C】もたくさん置いてあって。そこで紹介してもらって知るというのも、あの頃はよくあることでした。ただ、結成当初に1度ライブをやったんです。カセットを聴いたレコード会社の人に「ライブをやってお客さんつけなよ」とアドバイスをもらって。オーディション不要の新宿の〈アンチノック〉でした。
澤部
ハードコアの聖地とも呼ばれるライブハウスですね。意外です。
山崎
楽しくはあったんですけどね。ただ、やっぱり人が目立つのではなく、音楽を前に出したいなと。
澤部
2000年のライブ『空間』はまさにそういうスタイルですよね。幕が下りていて、その裏で演奏するという。僕は中学生でしたが、語り草になっていますよね。
山崎
当時お世話になったミュージシャンには「斬新すぎるからニューヨークに行け」と言われました(笑)。
澤部
確かに早いですよね。音楽性は違えど、後のGReeeeNや初期の相対性理論、20年代になるとadoさんのように顔を出さないアーティストはもはや当たり前の存在。それをゼロ年代初頭にやられていた。
山崎
最初に顔出しをしたのは04年の『空風街LIVE』。バンドの「融解(第1期終了)」を宣言したときのライブです。でもあくまで主役はお客さん。私はストーリーテラーのイメージで、舞台の脇に立つだけで。
澤部
僕、行きましたよ!記憶に強く残っています。そういった空気公団のスタイルのもとにはなにがあると思われますか?
山崎
今この瞬間を表現したいということですかね。中学生の頃に、ふと、今は二度とやってこないと気がついて。毎朝外にラジカセを向けて録音していたんです。写真でも映像でもよかったのかもしれないけれど、私にとっては録音だった。
それを続けていく過程で感情のグラデーションを描きたいと思うようになると、人が邪魔になる。だから、バンドではなく音楽を前に。歌詞も「私」ではなくて「僕」と言って、音楽とバンドの人間が同一視されないようにと考えています。
澤部
僕も曲のなかでは自分ではなくありたいと思って「私」を使うこともあります。それは空気公団からの影響の一つと言えますね。また、08年には自主レーベル、フワリスタジオ【D】を立ち上げますよね。ゼロ年代の特に後半は、自主レーベルでデビューするバンドが増え、さらにその面々が10年代のシーンを作っていったように感じています。当時の空気公団にとって自主レーベルという選択肢はどのようなものでしたか?
山崎
事務所もレーベルも所属している以上は、売れ線に乗る必要が少なからずある。光の当たっているところに移動するのではなくて、ここにいるよ!と言える場所を自分たちで作ってみようと思ったんです。
澤部
すごくかっこいいです。
山崎
予算が限られるので、宣伝なんかは大変でした。チラシを演劇の劇場や映画館、喫茶店に置いてもらったり。10年代にデビューしていたら、SNSを積極的に使って宣伝したかもしれませんね。ただ、スピードが速いですから。逆にクチコミでやっちゃえとなっていたかも。2010年代に向けて、という意味では09年に作った「青い花」が印象に残っています。
澤部
同名のアニメの曲ですね。漫画もファンで、曲も素敵でした。
山崎
アニメのオープニング曲といえばメジャーレーベルにオファーがいくもの。でも、自主レーベルの私たちに話が来た。自由に作らせてもらいましたしね。いわゆる政治的なしがらみのようなものがなくなっていった時代だったのかもしれません。