ネゴシエイション
文・斉藤壮馬
画・合田里美
小学生のころ、たぶん二年生か三年生だったと思うが、父の草野球の応援に行った。地域対抗トーナメントの準決勝か何かで、前日珍しく酒も飲まず早々に寝た父は、朝からとても張り切っていた。
ピッチャーの父は野球推薦で大学に行き、もう少しでプロになれそうだったらしい。社会人になってからも野球にあくなき情熱を注ぎ、近所の人とチームを組んでは練習に明け暮れていた。
ぼくはさほど野球に興味がなく、どちらかというとインドアな子供だった。キャッチボールをするたびに父は「おまえには才能がある。投手に向いているよ」と言ってくれたけれど、幼心にも自分が父とは違うとわかっていた。むしろぼくは、文章を読んだり書いたりするのがとても好きで、いくつかのコンクールで賞を取ったこともある。なんとなく、将来はそういう道へ進むのではないかと思っていた。
父は現役時代、相当努力したとみえ、かなり実践的な理論体系を組み立てて野球に取り組んでいた。ボールは肘から投げるんだ、フォロースルーが大切だ、と多くのアドバイスをくれ、ぼくも一応はそのとおりに投げてみるのだが、うまく投げられたことは一度もなかった。
たしか応援には母も行っていたはずだが、不思議と記憶にない。といっても、もうだいぶ昔のことだ。多くのことはおぼろげにしか覚えていない。
試合は中盤をすぎ、両チーム無得点と膠着状態だった。このあたりに草野球のチームがいくつあるのか知らないが、双方レベルが高いように思われた。
父はそのころよく、晩酌をしながら「今年のうちはかなりいいんだ。優勝も夢じゃないかもしれん」と赤ら顔で嬉しそうに語っていた。「でも、ひとチーム、ライバルになりそうなところがあってな。ピッチャーがなかなかやるんだよ」
あの父が言うならそうなのだろう。なるほど、たしかに敵のピッチャーはかなりの大柄で、みんなその球威に太刀打ちできないようだった。一方の父は小柄で痩せ型、投球スタイルもコントロール重視で、様々な球種を投げ分けるタイプである。
両投手による投げ合いには、独特の緊張感があった。
いつしかぼくもゲーム機をベンチに置き、父さん、打たれないでくれ、と祈るように手を組んでいた。
父はこの日のために節制をし、トレーニングに励んできたが、夏の陽射しは容赦なく体力を削り、疲労の色は明らかだった。だがチームには代わりのピッチャーはいない。それは相手も同じようで、ふたりともほぼ限界に達していながらも、鬼気迫るピッチングを続けている。
たかが──とぼくに言う資格はないけれど、でも──たかが草野球の試合だ。勝ったら褒めたたえ、負けたら慰める。ただそれだけ。でもなぜかその日のぼくは、どうしても父に負けてほしくなかった。
いや、父だけではない。チームのみんなに勝ってほしかった。彼らの毎週末の努力が報われてほしかった。三軒隣のKさんが「昨日飲みすぎてやっと目が覚めてきたわ」などと笑っているのを目撃していてもなお、そう強く思った。
しかし、ぼくにできることはない。草野球といえど、選手登録をされている人しか試合に出ることはできないし、何より大人たちに交じって小学生がバットを振ったところで、当たれば御の字、役に立たないことは明白だ。
悔しかった。ぼくは、いつもはさして頓着しない草野球の勝敗に、自分でも驚くくらいこだわりはじめた。ぼくには昔からこういうところがあって、ひとたびものごとに執着すると、まわりがどんなに宥めすかしても絶対に主張を曲げず、癇癪を起こして暴れ散らした。ただ、それがいけないことだというのも自覚していて、我慢の限界直前までじっと黙って耐えるのが常だった。
その日も、自分の内に渦巻く怒りの原液のような感情を必死に押し殺そうとして、こんなことを考えた。
神様お願いです。ぼくは今日、どうしても父さんたちに勝ってほしい。でも延長戦になったら、父さんたちは不利です。だから手を貸してください。その代わり、ぼくの持ってるものを差し出しますから。
いつからそうするようになったのかわからないが、少なくとも物心のついたころから、ぼくは往々にしてこの考え方を採用していた。
たとえば、遊具から落ちて息ができなくなったとき、「昨日作った最高の泥団子をあげるから助けてください」と願ったり、食べ物にあたって下痢と嘔吐が止まらないとき、「お気に入りのカードを三、いや五枚捧げるので楽にしてください」と祈ったりした。
もちろんそんな身勝手な願いが叶うはずもなく、泥団子は別の組の子に踏みつけられて割れたし、カードは戦いに負けて奪われただけだった。
「何を対価にする?」
声がした。
右を向くと、男がひとり、両手でゲーム機を持ち、真剣なまなざしで画面を見つめている。
「最近のゲームってすごいよな。没入感が違うよ」
「えっと……」ぼくは応援も忘れておずおずと切り出した。「それ、ぼくのですよね」
「そうだよ」
男は何を当たり前のことを、とでもいわんばかりの声色で頷いた。
ぼくがやっていたのはダンジョン探索型のゲームで、一度体力が尽きるとすべてがリセットされ、最初からになるというものだった。彼は音だけ聴いているぼくにもわかるくらい操作が下手で、あっというまにゲームオーバーになっていた。
「さてと」ゲーム機を脇に置いて、男はぼくを見た。「よくできてるけど、別に大したものじゃないな。まあでもサービスだ。ワンストライクくらいはあげよう」
何を言っているんだ、と思ったと同時に、軽快な捕球音がグラウンドに響いた。
「ライッ」
次いで審判が声を発する。
ストライク。
父のボールが打者を空振りさせていた。
男は、「な?」というような表情を浮かべ、にやついている。
そのとき気づいたが、彼はものすごく色が白かった。病的とも思える白さで、気温は三十度をゆうに超えているのに汗ひとつかいていなかった。それどころか、真っ黒のスーツに身を包み、先の尖ったぴかぴかの革靴まで履いている。
ぼくは即座に、ああ、これは関わってはいけない類の人だと理解した。

