それまでいくら力をこめても微動だにしなかった造作棚の引き出しのひとつが、唐突に開いた。この家に越してきて一ヶ月ほどが経った日のことだった。なかに収められていたのは飾り気のないハンカチと、いくつかの艶のあるボタン、二本の時計、そして宛先の書かれた封筒と便箋だった。
おそらくは数十年という年月、閉ざされたままだった引き出しから出てきたその手紙を読みたいという好奇心を抑えることは、僕にはできなかった。それはこの家のかつての住人が書いた手紙だった。転居してまもない日々の近況を彼は書いていた。そして彼の立たされていた境遇は、僕自身がこの家にいたるまでのそれと、驚くほど重なっていた。
僕はその手紙をくりかえし読んでは、その手紙を書いた人物と、それが届くべきだった人物について考えつづけた。ふたりが重ねた時間と、重ねることの叶わなかった時間に思いを馳せた。

Hへ
最後に便りを受け取ってからずいぶん時間が経ってしまった。前の手紙にもすこし書いた通り、父の友人がもつ家の管理を任されることになった。管理といってもすべきことは知れたもので、多くの時間をただ散歩したり、庭に植わる草花の手入れをしたりしている。そしてきみが同封してくれた小さな絵を、家のあちこちに飾って眺める。台所。キッチン。ガラスのキャビネットのなか。こここそふさわしいと思ったその翌日に、よりふさわしい場所がみつかったりする。

きみの生活がうまく滑り出したことを嬉しく思う。リスという動物がそれほど街中に溢れていることには驚いた。カリフラワーのステーキに、チーズに埋もれたビーフサンドウィッチ。味わいまで浮かぶ気がするけれど、実物は当然、僕の想像とはちがっているのだろう。何気なく植わっている街路樹もちがえば、風の運んでくる匂いもちがう。そうしたすべてのちがいが静かに、あらたにきみをかたちづくってゆく。

僕はときおり、きみがこの家で暮らしている光景を想像する。きみはきっとテラスからの眺めを気に入るだろうと思う。このあたりでは珍しい鳥の鳴き声がたえず行き交っていて、日々注意して耳を傾けていると、餌にありついた喜びの声と、外敵を警戒する声とはちがっているのだと、はっきりとわかるようになる。いずれかを言い当てるきみの姿が、僕にはありありとイメージできる。しかし、ひとたびガラス戸を閉じると家のなかは、驚くほど深い静寂で満ちる。

きみは造りつけの長い机がある書斎で夜遅くまで資料を読み漁ったり、次に描く絵の下書きをする。紙切れや雑誌や本が積み上がってゆくのもかまわず、机に向かうその背中が目に浮かぶ。そうして疲れきったきみがあとからベッドに潜りこんでくる。はじめは遠慮がちに、次第にしっかりと身を寄せる。そこにある温度。重み。呼吸。硬い骨と柔らかな肌。

出発の直前、きみは一緒に行かないかと僕に言った。いろいろなことはきっとどうにでもなる。あたらしい場所に移っても、私たちは私たちでいられる──それはとても嬉しい誘いだった。もし人生というものが喜びを探す道のりなのだとしたら、あのとき僕はきみに応じるべきだったのだと思う。いまでも。
きみが描きあげたあの絵は本当に素晴らしいものだった。しかし、審査会で選ばれた奨学生はきみではなかった。きみは泣いた。とても切々と、喉が嗄れるほどに。あのときのきみの姿を思い出すといまでも胸が痛む思いがする。けれどそのとき、僕が心の奥底で抱いてしまった感情が、きみの誘いに応じることのできなかった理由だった。それは安堵だった。これでもうきみは、遠い海の向こうに行きはしない。僕のもとから去ることもない──そう僕は思っていた。きみに慰めの言葉を口にしている、まさにそのときに。
きみはいま誰の力も借りず、自分自身の意志でその場所にいる。ルームメイトのいびきに悩まされ、水みたいに薄い牛乳に嫌気がさしながら、それでもあたらしい時を刻みはじめている。あたらしい色彩がやがて生まれる。あたらしいモチーフが舞いこんでくる。涙するきみの隣で安堵する僕という存在から遠く離れた場所で生まれるその絵を、いつか目にしたいと心から思う。
僕もまたこの場所で、僕なりに日々を過ごしている。遠いいつの日か、あたらしい絵を携えたきみが、この家を訪ねてくる──そんな光景をしきりに浮かべるようなことはもうやめようと思う。あたらしい時間を生きたいと思う。鳥たちはもしかすると、もっと様々な言葉を囀りあっているかもしれない。僕はその声を
便箋はそこで途絶えていた。
手紙をみつけてから四日が経った雨の日、郵便ポストを探して僕は家の周辺を歩き回った。そうしてみつけた赤いポストが開く細く暗い隙間に、その手紙を投函した。届くはずがないことはわかっていた。暗い引き出しで眠っていたその手紙をそれでも投函しないことには、僕自身もまた、どこにも進めないのだという気がした。手紙は音も立てず暗がりに吸いこまれていった。あたりの茂みで雨露をしのいでいるはずの鳥たちを僕は思った。
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