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「気分は歌謡曲2022」談・近田春夫〜後編〜

歌謡曲の話をするなら、まずはこの人からだろう。近田春夫。ニッポンの歌謡曲は「和洋折衷のガラパゴス的存在」であると看破したエッセイ『気分は歌謡曲』がカムバック。今、私たちはなぜ歌謡曲に惹かれるのか?前編はこちら

photo: Ayumi Yamamoto / text: Shu Shimoigusa

歌謡曲の基底を成す価値観は、
「不幸せ」に対する被虐的な興奮。

それは、日本社会に骨がらみの同調圧力の強さと根底においてつながっている。
その象徴が、さくらと一郎の「昭和枯れすすき」だよ。貧しさに負けたんじゃなく、世間に負けたと歌う。日本人の本質的なメンタリティなんだろうね。「仕方ない」という諦念を、甘んじて受け入れながら生きていく。

そのルーツは、恐らく敗戦という体験にある。敗戦を終戦と言い換えたことからして、相当なごまかしじゃん。憲法の解釈に関しても、とにかく現状の追認に終始する。

そして、この国の文化は、女性性の含有率が高い。戦後になってからだと思うけど、「かわいい」が日本的な美の基準として評価されるようになった。それは、対象の性別を問わないもので、突き詰めれば幼児性だと思うんだ。ジャニーズの人気も、その文脈で読み解くことができるよね。

そこは、同じ東アジアでも、中国や韓国とは違う。
例えば、Kポップはマッチョじゃない?BTSがビルボードで首位を獲得したことからもわかる通り、世界のメインストリームにおいて支持されるのは力強さなんだよ。

つまり、性的な意味を含め、成熟したものこそが高い評価を受ける。ある程度文化が確立した先進国で、未熟さや弱さに価値を見出すのは、日本ぐらいのものだと思うよ。

ちなみに、Kポップが世界的な成功を収めるに当たっては、韓国語の言語的特性が顕著に寄与している。濁音や破裂音が多いことが、特にヒップホップ的な英語との親和性につながっているんだよ。

その点、日本語と英語との乖離は大きい。英語は発声の強弱でアクセントをつけるけど、日本語はその高低でアクセントを示す。
歌詞を乗せる時も、メロディの上がり下がりは単語のイントネーションに忠実であることを強いられる。そんなふうに、日本語の歌は旋律に縛られてしまうから、和声を工夫するところまでは手が回らない。

洋楽に比べて、邦楽にはハーモニーの面白いものが少ないのはそれが理由。ポップスを作るうえじゃ、大きなハンディキャップだよね。
日本語を使う限り逃れることのできないその不自由さが、歌謡曲を特徴づけてきた。逆説的だけれど、歌謡曲の持つどこか不思議な官能性は、そこに由来する。

一方、意味の表現においては、日本語は曖昧さを内包する。

英語みたいに、イエスとノーがはっきりしていない。白でも黒でもないグレーな部分をどれだけきめこまやかに豊かにしていくか、その洗練こそが、日本文化の粋。
その行為を、みんなが風流なものとして楽しんでいる。外国人には理解しづらい奇習かもしれないね(笑)。

ただ、国際的な観点から見て、日本語に魅力が皆無だとは決して言い切れない。

ミッシー・エリオットの「ゲット・ユア・フリーク・オン」の冒頭の「これからみんなでめちゃくちゃ踊って騒ごう騒ごう」ってセリフとか、デヴィッド・ボウイの『イッツ・ノー・ゲーム』の日本語のナレーションとか、カッコよく感じたりしたじゃん。

意味じゃなく、響きとして、いかに日本語を面白く聴かせるか。これからのミュージシャンは、そこに注力するのがいいと思う。何しろ、坂本九の「スキヤキ」という前例があるんだから、日本語の音楽がもう一度世界的な脚光を浴びることも、決して無理な話じゃない。

平成以降、いわゆる歌謡曲というジャンルは衰退し、Jポップが繁栄したという歴史観が共有されてきたわけだけど、その実、2者の中身はそう違わなかったと俺は考えてるんだよ。
とにかく、日本語で歌っている限り、ドラスティックに根幹が変質することはない。

言い換えれば、現代の日本において、歌謡曲とは確信犯的な意図の下に作るものではない。誰が何を作っても、結果として歌謡曲になってしまうんだ。

孫悟空が、どれだけ飛び回ってもお釈迦様の手のひらから逃げ出すことができなかったように、アーティスト本人は日本という狭い枠からはみ出したグローバルな音楽を作ったつもりでも、はたから見ると、それは内向きのドメスティックな音楽でしかない。まさにジレンマだよ。

しかし、最近のヒット曲は、堅気の世界ばかりを歌うようになったよね。みんな真面目だよ。ここ数年の、コンプライアンスに厳格な風潮を反映してるんだろうけどさ。

米津玄師にしても星野源にしてもあいみょんにしても、この同時代に暮らす普通の若き善男善女の生態を描くことに成功している。YOASOBIというユニット名だって、俺なんかが若い頃に六本木や赤坂で興じた類いの夜遊びとは全然違うイメージで命名されてるんだろうね(笑)。

昔の歌謡曲には、ヤクザな生活を美化するような内容のものがたくさんあったよ。恋愛を歌う場合も、不倫を扱う歌が多かった。今じゃ、なかなか企画が通らないんじゃないかな。

それと、近頃の歌詞は、とにかく若作り。アーティスト本人がいくつになろうと、いつまで経っても20代の恋愛を歌っているような印象を受ける。もうちょっと年相応の歌を作った方がいいんじゃないかなあ。

最近、若い人たちの間で昭和歌謡が流行っていると聞く。あの時代のヒット曲は、パッと聴いてすぐに覚えられるぐらいにキャッチーだし、思わず体が動くフィジカルな魅力にもあふれている。そこに惹かれるんだろうね。

SpotifyやApple Musicといったストリーミングは、若者と歌謡曲との間に数多くの接点を与えたと思う。

タダで数限りない過去の音源を聴くことが可能になったんだから。しかも、リスナー一人一人の嗜好に応じて、「こんな楽曲もお好きじゃないですか?」と関連楽曲を次々におすすめしてくれる。

まあ、俺に言わせりゃ、あの手のサービスのリコメンド機能はまだまだ甘いよ。「よりによってこの俺にこんな有名な曲薦めるのかよ」って腹立たしい思いをすることもあるから(笑)。

と言いつつ、もしも今、自分が20歳ぐらいだったら、わざわざ誰も知らないマニアックな曲を自ら掘り起こすことはなく、リコメンドされる曲を素直に聴いてるだろうね。やっぱりそっちの方が楽だもん。

サブスクリプションの普及は、俺が経験したラジオ主導の歌謡曲黄金時代を再び到来させるかもしれない。
だって、ああいうシステムにおいてリスナーが最初に接するのは楽曲そのもの。ビジュアルをはじめとする余計な情報抜きに、予断なく音楽に出会うことができるわけだから。

味わい深い歌謡曲という世界に、今こそどっぷり浸かってみてほしいよ。