体験ベースでは得られない衝撃を
言葉で味わう。
ストーリーやキャラクターに偏向した文学表現には、昔から異議を唱えたかったんです。例えばテレビや映画の映像は、光の点で作られているけれども意識することはほとんどなく、通常はそれによって形作られる現実と等身大の物語を見ているわけです。
一方で小説はより原始的なメディアで、映像における光の点に相当する言葉をもっと意識しますよね。だけど最近は、映画やテレビのように小説を読もうとしている傾向があると思うんです。つまり言葉が透明化されて、伝達ツールにすぎなくなっている。言ってみればこれは、エンターテインメント小説の読み方なんだよね。それに対して純文学小説は、言葉そのものを否応なく意識させるようなところがあるから人気がない(笑)。読むときに抵抗感が生まれるからね。
僕も会社員をやっていたからわかるけど、通勤電車の中で立ちながら純文学なんか読みたくない。夜中に机に向かってとか、旅先で態勢が整ったときに読む気になれるものです。だけど今は多くの人が24時間、月曜朝の通勤電車の中にいるような精神状態になってしまっている。だからなるべく言葉を意識せず、映画やテレビのように楽しめる小説を読みたがる。気持ちとしてはわかるけど、ある意味残念なことだと思います。
文体と内容的な面白さが結びついたときに傑作が生まれる傾向はあるけど、極論すれば文体が好きな作家はたとえ失敗作でも面白いと思えるもの。僕の場合は倉橋由美子さんの文体が好きすぎて、呼吸するように摂取していた時期がありました。倉橋さんはその文体を窪田啓作さんが訳したカミュの「異邦人」で学んだらしく、読み返してみたらたしかによく似ていた。
「きょう、ママンが死んだ」という名訳で有名ですが、これがもし「きょう、母が死んだ」なら何の衝撃も受けないけれど、「ママン」という言葉がいきなり来たことで、日本でもフランスでもアルジェリアでもない異次元に連れ去られるような感覚が生まれたわけだよね。原作を超えたに違いない翻訳文体のすごさだと思います。
僕としては、本当に優れた純文学はエンタメ作品としても読めるという意識があるから、純文学度とエンタメ度の高さが両立していないと心から推せないんです。今回挙げた5作品は、その2つを兼ね備えた強度があります。エンタメ作品の中のエンタメ性しか知らない人はかわいそうだと思ってしまうくらい、こっちの方が面白いはずだと言いたい。
今回はどれも古い作品になってしまったけれど、最近の作家で文体が好きなのは岸本佐知子さん。岸本さんの作品はエッセイに分類されているけれども、その文体は散文詩的であり、ミステリーみたいなところもあって、それこそ純文学度とエンタメ度が両立しています。フィクションとノンフィクションという二分化を拒否した文体だと思うし、どれも見開きくらいの長さでちょうどいいような結晶度があるんですよね。
ストーリーやキャラクターは現実に対する似姿なわけで、それらに面白さを見出すことは、現実が一番面白いという価値観を強化しているにすぎないと思うのです。体験ベースで得る快楽ではなく、意識していなかった扉を開いてみたら、とてつもない世界が広がっていたというような衝撃を小説で味わってほしい。
現実ではなく空想世界に輝きを感じて固執することを、現代では中二病と呼ぶのかもしれないけれども、中二病の真実性を追求したような作品はどれもかっこいいよね。だって「暗い旅」とか「夢の時間」とか、我に返ると恥ずかしいタイトルばっかりじゃないですか!こういった小説をかっこいいと思って育ったから、今さら恥ずかしいと言われても困るんですよ(笑)。