「写真のために、行く、会う」高橋ヨーコ
写真に連れ出され、知らなかった世界を見る
見たことのない風景なのに、どこか懐かしい、記憶の奥底を掘り起こされるような色と光。高橋ヨーコの写真はいつも、ここではないどこかへと向かう旅への憧れを掻(か)き立てる。
1990年代から旧ソ連をはじめとする東欧諸国へ精力的に出かけ、世界各地の情景をフィールドワークさながら、撮り続けてきた。ユーラシア大陸を横断するシベリア鉄道に初めて乗り込んだのは、20代半ば。時には政情不安で足止めをされ、時には所持金が尽きて「どうやって帰ってきたのかすら覚えていない」という若かりし頃の旅のドタバタ話は、どれも超絶に面白い。だから高橋は当然、「旅好き」なのかと思っていた。でも、違うのだという。
「旅が好きだなんて、思ったことないんです。写真を撮りに行く、という理由がなければ、どこにも行かないんじゃないかなぁ」
撮りたいものに出会いたいから、“仕方なく”旅に出る。本当は家にいるのが好きだし、「どちらかといえば出不精」だと、本人はあっけらかんと笑う。それが一転、撮りたいと思うもののありかを嗅ぎ取ったら、驚くほどの行動力で「その場所」へと辿り着く。
「なんなんでしょうね。写真は外に出たり、人と会う言い訳であり、ボディガードみたいなものですかね。実際にはぜんぜん守ってなんてくれないんだけど、撮りに行くとなったら、ちょっと怖いところにも行けちゃう。悪い遊びに誘う相棒、とも言えそうです。なにひるんでるんだよ、行っちゃおうぜ、行かないわけにいかないだろ、みたいな(笑)」
そうやって写真に連れ出され、世界が広がっていく。実際に行ってみないとわからない、その国の文化や街の佇まい、リアルな日常、「撮ることで、知らなかったことを知ること」が、何よりも楽しいのだと高橋は言う。
見たい=撮りたい。世界から消えてしまう前に
撮るための旅へのきっかけは、とても些細なことだったりする。2003年に訪れ、05年に写真集『グルジアぐるぐる』にまとめられた南コーカサス・グルジアへの旅は、たまたまネットで見た風景写真が始まりだった。ヴィム・ヴェンダースの写真集で出会ったカフェの雰囲気に惹かれ、「ここを撮りたい!」と、わざわざアリゾナまで足を運んだこともある。
「とにかくこの景色のところに行こうって、行き方を調べ、移動して、撮る。それだけです。道中、観光もしないし、おいしいものも食べないし、楽しいことは何もない。中判の6×7など、だいたい3種類のカメラとそれぞれのサブボディ、三脚、フィルム……荷物は重いし、ひたすら歩くしで、なんなら辛いことばかり」
それでも見たい。見たことのないものを、見たい。
「私にとって見たい、ということと撮りたいと思う気持ちはイコールなんですよね。最近思うのは、見たいもの、急がないとなくなっちゃうなぁって。私は古いものや昔からそこにあったもの、その場所にしかないものが好きだから」
つい先日も、インスタで見かけて惹かれた建物を調べてみたら、取り壊されてなくなっていたと悔しそうに話す。今年、20年ぶりにグルジアを訪ねる予定だが、当時の面影はもうないことを覚悟している。社会主義国にも“グローバル”は入ってきていて、今や外国人向けのホテルも数多くあるし、かつて高橋が見た「鉄のカーテンの、もう一枚向こう側」の暮らしも、大きく変わったに違いない。
「その変化を見るのも面白そうだとは思っています。でも、当たり前だけど、改めて思うのは、20年前のあの風景は、あのときしか撮れなかった。早くしないと世界が変わっちゃうな、という焦りは、昔も今も、常にあります」
ところで、撮影から帰ってくると、高橋は暗室で一人、反省会をするという。いい写真があれば、フィルムを何度見返しても楽しいけれど、ないときは、「あんな遠くまで行ったのに、こんな写真しか撮れないなんて馬鹿者!みたいな感じ」で、なぜもっとちゃんと撮らなかったかと悔やむことも。
「面倒くさいんですよ。ちゃんと撮るのって。移動中に荷物を下ろして三脚立ててって、なかなかの面倒。でも後になって、なぜあのとき丁寧に撮ることをためらったのか……と思うこともあって、もっとしっかりやろう、自分!って毎回暗室でやってます」
古いフィルムを見返すときは特に悔しさが募る。
「過去には戻れないからね。だから最近は撮るときに“丁寧に撮ろう、ちゃんとやろう”って自分に言い聞かせたりしています」
アスリート然。撮りたいものが、世界から消えてしまうその前に。写真に連れ出され、せっかく旅に出たのだから。