「物語の途中を切り取る」伊藤徹也の写真の話
本当は、写真はすべて物語の途中で、だからこそ、すべてが写るのかもしれない
フォトグラファー伊藤徹也が編集者から重宝されるのは、被写体を選ばないからだ。風景、人、モノ、それらが組み合わさった旅など、さまざまなお題に期待以上に応える。だからコロナ禍で移動が制限された数年間、主な被写体が料理に変わったとしても、伊藤ならば「なんとかしてくれる」と思われたのだろう。
伊藤自身は「最初はどう撮ればいいのかわからなかった」と言うが、すぐに自分なりの正解を見つけ出し、あっという間に多くの料理家から指名されるようになっていった。
「結局、旅先で出会ったものを撮るのと同じように、料理にも出会うというか。旅の風景も、出会った瞬間に撮ったものが大抵一番良くて、光待ちをして撮っても良くなることなんてほとんどない。カレー本を手伝った時には40種類以上のカレーを撮っているけれど、毎回違うように撮ろうなんてまったく考えてなかった(笑)。反射神経なんだろうね。その都度、いい表情を探しているんだと思う」
では、伊藤が思う「いい表情」とは、どんなものか。例えば、料理家の野村友里の母、野村紘子が中華料理・ヤーズの皮をこねる手の写真がわかりやすい。料理本の主役たるべき食材ではなく、ピントも光も、明らかに皮を押しつぶす「手」を撮っている。シミがあり皺が寄って、だからこそ美しい陰影を映す「手」は、料理人の背景まで想像させる。
「(息子の野村)訓市くんを育てるのに苦労があっただろうなとか(笑)、そんな生きざままで出ているというか。だから手を撮りたかった。この時はわかりやすく料理人の手だけど、料理を撮っている意識もないんだよ」
あるいはウナギ。締められ、さばかれるのを待つウナギの、気になった「白い腹の質感」に光を当てた。口を開け、虚空を見つめるウナギが、どこで獲れたものなのか、私たちは知らない。
けれど、黒潮に乗って長い旅をして日本近海にやってきた後、おいしく調理される過程にあることは十分伝わってくる。伊藤の撮る写真は、このような「物語の途中」が多いのだ。
「完成した料理よりも作っている最中や、食べながら崩れていく感じが好き。料理が皿に盛られてステージに上がる前、もしくは上がって食べられている最中の方が、物語が感じられるから」
この言葉に、伊藤の写真の特徴が凝縮されている。本来は止まっているはずの料理を、動きを伴って撮りたいという。流れの中の一瞬を撮りたいという思いは、先のウナギのような動かない被写体に向き合った時には、「物語の途中」であると強調することによって成立させている。
ツバキの群落の写真を見てほしい。咲き終えたツバキは、花弁がはらりと落ちるのではなく、花ごとボトッと地面に落ちて、朽ちていく。だから苔むした緑の絨毯の上で、再び咲いているように見える。花が咲き、いずれ土に還るまでの束の間が、物語の断章として訴えてくる。
暗くて見えない部分が、物語を補完してくれる
もう一つ、ツバキの群落の写真で感じるのは、まるでステージのような光の落ち方だ。「ここを見てほしい」という視線の導入が明確で、その分、感情移入しやすい。
「見せたいところに光を当てる傾向はあると思う。順光、逆光と光の角度はさまざまだけど、見せたい質感のところに光を当てて、そこを基準に露出を決めていくから、必然的に背景がどんどん暗く落ちていく。僕の写真に暗いものが多いのは、そういう理由。でも、それでいいと思ってる」
光を明確に当てた分だけ、陰が多くなる。ウナギでもツバキでも、カレーでも同じ。そして、「実は陰こそが主役だ」と伊藤は言う。
「写真は、陰だよね。写っていない部分、暗くなって見えづらい部分のおかげで、見る人が想像力で補完してくれる」
ツバキの物語を補完しているのは周囲の陰に潜んでいるかもしれない生命の気配であり、カレーを引き立たせているのはわずかにしか見えない器の質感だろう。
「ありのままを撮っているだけなんだけどね。くるみさんの日焼け跡なんてすごく可愛いじゃない?」
料理家・有元くるみのポートレートは、背景のぼやけたキッチンの雑多さに生活を感じるからこそ、人物がより魅力的に映る。撮影後にはきっと一緒に飲みに行ったのだろう。そんな物語の続きさえ、想像させる写真ではないか。