「物語の途中を切り取る」伊藤徹也の写真の話

photo: Tetsuya Ito, Jun Nakagawa(portrait) / text: Toshiya Muraoka / edit: Taichi Abe

写真家ではなくフォトグラファーであることに自負があり、目の前にやってくる課題(≒仕事)に対して、千本ノックのように打ち返してきた30年。その日々は「面白くてたまらないし、まったく飽きない」と、伊藤徹也は言う。「自分の写真なんてわかんない」と語るが、近年の仕事から多様な写真を振り返ると、いくつかの共通点があった。

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本当は、写真はすべて物語の途中で、だからこそ、すべてが写るのかもしれない

フォトグラファー伊藤徹也が編集者から重宝されるのは、被写体を選ばないからだ。風景、人、モノ、それらが組み合わさった旅など、さまざまなお題に期待以上に応える。だからコロナ禍で移動が制限された数年間、主な被写体が料理に変わったとしても、伊藤ならば「なんとかしてくれる」と思われたのだろう。

伊藤自身は「最初はどう撮ればいいのかわからなかった」と言うが、すぐに自分なりの正解を見つけ出し、あっという間に多くの料理家から指名されるようになっていった。

「結局、旅先で出会ったものを撮るのと同じように、料理にも出会うというか。旅の風景も、出会った瞬間に撮ったものが大抵一番良くて、光待ちをして撮っても良くなることなんてほとんどない。カレー本を手伝った時には40種類以上のカレーを撮っているけれど、毎回違うように撮ろうなんてまったく考えてなかった(笑)。反射神経なんだろうね。その都度、いい表情を探しているんだと思う」

撮影には必ず空腹で向かい、欲望の赴くままに、艶を写す。
『魯珈のスパイスカレー本』(著:齋藤絵理/晋遊舎)撮影時のアザーカット。スパイスカレーを煮込む最中の艶感に惹かれた。伊藤の写真は、しばしば編集者から「エロい」と言われるが、理由はこの艶にあるのだろう。食の撮影には必ず空腹で行き、「腹減った、旨そう!食べたい!」と思いながら撮るという。その欲望が、写る。

では、伊藤が思う「いい表情」とは、どんなものか。例えば、料理家の野村友里の母、野村紘子が中華料理・ヤーズの皮をこねる手の写真がわかりやすい。料理本の主役たるべき食材ではなく、ピントも光も、明らかに皮を押しつぶす「手」を撮っている。シミがあり皺が寄って、だからこそ美しい陰影を映す「手」は、料理人の背景まで想像させる。

料理人の手を写すことで、その料理の背景まで感じさせる。
料理家・野村友里さんの母、野村紘子さんの著書『受け継ぎたいレセピ』(誠文堂新光社)で撮影した、中華料理・ヤーズの皮をのばしているところ。皮にもピントは合うが、ほとんど「手」を撮影している。使い込まれた手を写すことで、母が大連で習い、紘子さんが子供の頃からよく食べていたという、この料理の物語をすくい取る。

「(息子の野村)訓市くんを育てるのに苦労があっただろうなとか(笑)、そんな生きざままで出ているというか。だから手を撮りたかった。この時はわかりやすく料理人の手だけど、料理を撮っている意識もないんだよ」

あるいはウナギ。締められ、さばかれるのを待つウナギの、気になった「白い腹の質感」に光を当てた。口を開け、虚空を見つめるウナギが、どこで獲れたものなのか、私たちは知らない。

けれど、黒潮に乗って長い旅をして日本近海にやってきた後、おいしく調理される過程にあることは十分伝わってくる。伊藤の撮る写真は、このような「物語の途中」が多いのだ。

止まった被写体であっても、大切なのは、自分が感じた印象。
東京・根津にある極上の魚介類のみを扱う魚屋〈根津松本〉のために撮影したウナギ。伊藤が意識したのは第一印象で気になった「白い腹の質感」を写すこと。小さなライトを片側から当て、背中部分は黒く落ちて背景と同化している。ライティングをして行った撮影ではあるものの、出会った印象を捉えるという考え方は変わらない。

「完成した料理よりも作っている最中や、食べながら崩れていく感じが好き。料理が皿に盛られてステージに上がる前、もしくは上がって食べられている最中の方が、物語が感じられるから」

この言葉に、伊藤の写真の特徴が凝縮されている。本来は止まっているはずの料理を、動きを伴って撮りたいという。流れの中の一瞬を撮りたいという思いは、先のウナギのような動かない被写体に向き合った時には、「物語の途中」であると強調することによって成立させている。

ツバキの群落の写真を見てほしい。咲き終えたツバキは、花弁がはらりと落ちるのではなく、花ごとボトッと地面に落ちて、朽ちていく。だから苔むした緑の絨毯の上で、再び咲いているように見える。花が咲き、いずれ土に還るまでの束の間が、物語の断章として訴えてくる。

サイクルの「途中」を写して、島の物語さえ、想像させる。
およそ20万本が植えられ、周囲約8㎞の島全体がツバキ林に覆われている伊豆七島の利島(としま)で撮影。樹木の太さによって樹齢の長さがわかり、島の歴史にまで思いを巡らすことができる。被写体は紛れもなくツバキだが、周囲が暗く落ち、林の奥に続く生き物の気配まで感じさせる。咲き、朽ちていく四季の「途中」を撮っている。

暗くて見えない部分が、物語を補完してくれる

もう一つ、ツバキの群落の写真で感じるのは、まるでステージのような光の落ち方だ。「ここを見てほしい」という視線の導入が明確で、その分、感情移入しやすい。

「見せたいところに光を当てる傾向はあると思う。順光、逆光と光の角度はさまざまだけど、見せたい質感のところに光を当てて、そこを基準に露出を決めていくから、必然的に背景がどんどん暗く落ちていく。僕の写真に暗いものが多いのは、そういう理由。でも、それでいいと思ってる」

光を明確に当てた分だけ、陰が多くなる。ウナギでもツバキでも、カレーでも同じ。そして、「実は陰こそが主役だ」と伊藤は言う。

「写真は、陰だよね。写っていない部分、暗くなって見えづらい部分のおかげで、見る人が想像力で補完してくれる」

ツバキの物語を補完しているのは周囲の陰に潜んでいるかもしれない生命の気配であり、カレーを引き立たせているのはわずかにしか見えない器の質感だろう。

「ありのままを撮っているだけなんだけどね。くるみさんの日焼け跡なんてすごく可愛いじゃない?」

一緒に過ごしていると訪れる、その人らしい瞬間を逃さない。
雑誌『&Premium』の撮影で、現在は高知に暮らす料理家の有元くるみを訪ねた。サーフィンを愛する彼女の日焼けした姿と、料理家としての顔を窺わせるプロ仕様のキッチン周りが、暮らしを想像させる。大切なのは顔がはっきり見えることよりも、彼女の空気感。奥の照明は点いているが、手前は照明の数を減らしてやや暗くした。

料理家・有元くるみのポートレートは、背景のぼやけたキッチンの雑多さに生活を感じるからこそ、人物がより魅力的に映る。撮影後にはきっと一緒に飲みに行ったのだろう。そんな物語の続きさえ、想像させる写真ではないか。