「あっ、と思った衝動を逃さない」写真家・上田義彦に聞く「撮る」ことの心得

photo: Yoshihiko Ueda, Ayumi Yamamoto(profile) / text&edit: Tami Okano

上田義彦の写真には、ずっと見ていたい、いつまでもとどまり続けていたいと思わせる、余情のようなものがある。それはどこから来るのか、どうして撮れるのか。現代日本の写真の大家に「撮る」ことの心得を聞きました。

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1993年発行の写真集『QUINAULT』より。8×10の大判カメラで、ネイティブアメリカンの神聖な森をつぶさに捉えた、代表作の一つ。上田は同地を繰り返し訪れているが、この作品は1990年に撮影した「Quinault No.39」。太古の時代から脈々と続いてきたであろう森の営みの気高さ、静けさや湿度までもが感じられる。

目の前のものが、当たり前ではないと気づくとき

シュート・フロム・ザ・ヒップ。

西部劇でガンマンが素早く腰だめで銃を撃つ、あの仕草のことをそう呼ぶ。英語の慣用句でもあり、意味としては、「考えず、衝動的に行動すること」。

写真家の上田義彦は、写真を撮るときの心得を、その言葉になぞらえる。「あっ、と思ったら撮ればいい。長々と構えて狙って撮るのではなく、何も考えず、考える前に撮ることができたらいいのではないかと思っているんです」

あっいいな、あっ美しいなと思う、その「衝動」がすべてだ。邪魔をするのは、うまく撮ろうとか、きれいに撮ろうというような、ヨコシマな心。

「いい写真にしようなんて、思った瞬間にダメになる。自分以外の誰かや何かと照らし合わせて考えていたら、そこにあるものはただ、かっこよく撮るための“材料”でしかなくなってしまう。衝動がどこで起こっているのか。脳なのか、心なのかはわからないけれど、とにかく自分の中に起きた“あっ”を逃さないことです」

ではどんなときに、あっ、と思うのだろう。

「目の前のものが、当たり前ではないと、気づくことができたときではないでしょうか。居間に飾られた植物が今そこにあることも、当たり前ではない。この瞬間は、もう二度と見ることができない。そういう感覚を持つことができたとき、目の前のものは、とても大切なものに見えてくる。その気づきが“撮る”という行為をさせるんだと思います」

1990年から、上田はネイティブアメリカンの聖なる森を訪れ、代表作として名高い写真『QUINAULT』にまとめた。何千年と変わらずにそこにあるような、鬱蒼とした森の深奥。目を凝らして見ると、古木の足元には新葉が青々と輝き、生と死とが入り混じる混沌に、思わず息を呑む。

「森は変わるんです。大きな木が倒れて光が当たるようになり、新しい草花が育てば、その場所はもう全く違う場所になる。そういう環境の変化もありますし、面白いことに、翌日同じ場所に行っても、同じものは見つけられない。世界が“同じ”であり続けることはないんです。そういう意味でもやはり、あっ、と思った瞬間に撮れるかどうかだと思います」

移動中のタクシーの窓から見て一瞬で心を奪われたという、リンゴの木。「また撮りたい」と思い続け、数年後、ついにその木の下に立ったときの喜びが、溢れんばかりに伝わってくる。作品名は「林檎の木 No.6」。写真集『林檎の木』の発行は2017年で、装丁はサントリーウーロン茶の一連の広告などでもチームを組んだ葛西薫。

二度と見ることができない奇跡は、日常にある

写真家としての40年以上のキャリアの中で、一つの転機は、35mmフィルムで家族の写真を撮り始めた頃かもしれないと、以前上田はインタビューで答えている。

結婚し、4人の子供の誕生で6人家族になるまでの、13年間の軌跡。そのなにげない日常に向けられた「この瞬間は、もう二度と見ることができない」という、切ないまでの気づきが、写真集『at Home』に収められている。

「大切な人を見ていて、今撮らないと、と思いましたね。それまでは、手が届かないような人のことを撮りたいと思っていた時期もありましたが、遠くまで行って大きなカメラを構えるのではなく、小さなカメラで、目の前にいる本当に大切な人のことを撮る。そのことで、写真に対する思いの深さは変わっていったと思います」

家族を撮るという経験や積み重ねた日々の実感から、「世界中の写真の中で、大切な写真は、ほぼ日常で撮られているんじゃないか」と上田は言う。写真は瞬間であると同時に永遠でもあるというのも上田がたびたび口にしてきたことだが、その「瞬間と永遠」に届く奇跡は、私たちの日常にある。

妻、桐島かれんから贈られたLeica M4で撮り続けた家族の記録。1993年の結婚から13年間の、妻と子供たちとの日常に寄り添った名作『at Home』より。二度とない瞬間、と気づき、写真の中に閉じ込めた「ほほ笑み」は、夢のように温かい。極めて個人的な時間や思いの断片だからこそ、普遍的で見る人の心に残る。
妻、桐島かれんから贈られたLeica M4で撮り続けた家族の記録。1993年の結婚から13年間の、妻と子供たちとの日常に寄り添った名作『at Home』より。二度とない瞬間、と気づき、写真の中に閉じ込めた「ほほ笑み」は、夢のように温かい。極めて個人的な時間や思いの断片だからこそ、普遍的で見る人の心に残る。
『at Home』より。

もう一つ、写真を撮ることへの心得として、教壇に立つ多摩美術大学の教え子たちによく話すのは、「写真は鏡」だということ。

「写真には、実はあなたが写っているんだよ、と。撮る人がそのときに感じたこと、迷ったのなら迷ったこと、すべてが写し出されている。だからあなたが本当に目の前のことに驚き、喜んでいたのなら見る人もまた驚いてジッと見て、ドキドキもするし嬉しくもなる」

つまり、写真を撮ることは、自分を見ることであり、赤裸々に露呈する自身の内面を見せること。そこにはある種の「覚悟」のようなものも必要になる。

「何かを前にして、それを美しいと思える自分であるか。自分が本当にそれに反応できるか。写すということは、すべて自分との対話みたいなものかもしれません。譬(たと)えるとすると、合気道のように、相手に逆らわず、受け入れながら、また新たな力にして返すという、そういう動作や力のやりとりにも似ているな、と思います。コツなんてないですけどね。あえて言うなら、自分の状況をフラットにしておくこと。わぁ素晴らしい、美しいと感じられる状態に、世界に対して、自分を開いておくこと。その先は、シュート・フロム・ザ・ヒップ、です」