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川島小鳥が語る、“作り込まない”写真の奥深き楽しみ方

携帯電話のカメラなどを誰もが1台は持ち歩き、身近な存在となった“写真”。だからこそ改めて知りたい、奥深き楽しみ方。

Photo: Kotori Kawashima / Text: Sawako Akune

子供に「自分の人生に集中してもらう」のが一番。

笑う。食べる。泣く。遊ぶ。走る。どれもこれも本気かつ全力だ。カワイイ顔も、激しくブサイクな顔も、だからこそ滅茶苦茶にかわいい。子供ってそもそもがそういう存在なのだ、もっと言うなら、人間ってこういうものだなぁということまでも、強烈な説得力で伝える写真である。

川島小鳥による『未来ちゃん』。新潟県佐渡島に住む友人の3歳になる娘を、1年にわたって撮り溜めてきたものだ。ここまで気取りも緊張もない、むき出しの写真を撮ることができるのは、一体なぜなのか。

「作り込まないことかも」と川島が話す。

「写真を撮るという行為自体、ある“わざとらしさ”を含んでいますよね。だから“こっちを向いてほしい”とか、“こう動いてほしい”とかいう僕の意図が出ない方がいい。まあ、そもそも彼女は全精力を上げて自分の人生に集中しているので、こっちに意図があってもおかまいなしでしょうけど」

だからだろうか、撮影の間、川島は「未来ちゃん」にたくさんの言葉をかけたりはしない。

自由に走り回る彼女の傍らに、いつもカメラを一つぶら下げてすっと控えていて、淡々とシャッターを切っていく。「大袈裟な言い方だけど、無になろうとしているのかな……」という言葉の通り、存在感のない、空気のような立ち位置にいるらしい。

それは川島がそもそも持ち合わせたキャラクターであると同時に、「未来ちゃん」と過ごした時間の長さから来るものでもあるだろう。「未来ちゃん」を撮ってきたこの1年の間、川島が仕事の合間を縫って夜行バスやフェリーを乗り継いで佐渡を訪れること十数回。短くて数日間、長い時には10日程度、「未来ちゃん」宅に滞在しているのだ。

「一緒に寝起きして、家族で出かける先にもついていき、たまに家のことを手伝ったりもして」いるからこそ得られる、「未来ちゃん」の、写真家に対するそこはかとない(かつ無意識の)信頼が、一連の写真を可能にしているともいえるのではないか。

写真家 川島小鳥「作り込まない写真」子供と雪

「彼女は存在そのものがすでに驚異。それまで子供を撮ったことはなかったけれど、“未来ちゃん”のことは撮りたいと思った。崇拝しているに近い」

崇拝が大袈裟なら尊敬であり、敬愛する、ということだろうか。「未来ちゃん」を写した彼の写真が単なる“かわいい子供の写真”とは一線を画す強度を持つ秘密は、多分、ここにある。