「山羊汁、食べていいすか?」と、碇山勇生との昼食の席で尋ねられ、つられて私も山羊汁を頼んだ。島の人にとってもご馳走だから、メニューにあったら頼まずにはいられないのだと笑う。やっぱり独特のクセはあるが、病みつきになるのもわかる。
勇生が言うように、食べるとエネルギーが漲ってくるようだった。昼食後には眠い目を擦りながらインタビューをし、夕方には彼がサーフィンを始めたビラビーチで一緒に波乗りをした。
翌朝には勇生の営むサーフショップ〈Can.nen Surf〉でサーフボードをピックアップして海に向かい、その後に取材もしくは映画のための追加撮影。昨夏にアメリカから撮影クルーがやってきて、大まかなストーリーは撮っていったが、編集段階でさらに素材が必要となったため。数日間、ほとんどそんな風にして奄美大島で過ごした。
少しずつ体が島に馴染んでいく。都会の汚れのようなものは海底の珊瑚が透けて見える海で波を待っている間に流され、島の懐に抱かれているような気持ちになってくる。わずかな滞在の間に顔見知りができ、どんな風に生きているのか、すんなりとした会話を交わすようにもなった。
沖縄ともまた違う時間の流れ方で、それは隕石が墜落して生まれた赤尾木湾に代表されるような、複雑な地形のせいかもしれない。
山と海が近く、その合間に集落がある。谷間の風の抜け方は、人々の気質に影響すると思う。サーフィンの神様と言われるジェリー・ロペスは、奄美に初めて訪れた際に、不思議と懐かしさを感じたという。ハワイに似た湿気と植生、それからアイランド・バイブスと表現される島らしい大らかさのためだろうか。
神様は台風のうねりとともにやってきて、半年ぶりのサーフィンでさくっとチューブに入り、次の日の夜には去っていった。その時にジェリーさんが使ったボードを貸してもらって海に入った。
パタゴニア・フィルムズの中でも全世界で配信される作品は、アメリカ本社の主導によって撮影されるものが多いという。世界の人々が理解しやすいように勧善懲悪のわかりやすい価値観が求められるのもむべなるかな。だが、奄美大島を舞台とした作品においては、誰が敵で、誰が味方なのか、という対立軸は絶対にやめてほしいと勇生からの要望があった。
「島で生まれ育ったプロサーファーが、開発に反対して、環境問題を訴える」というわかりやすい構図は、奄美大島にはふさわしくない。開発を請け負う土建業者も幼い頃からの顔見知りで、勇生の父もまた土建業だった。では、島の未来をどのように描けばいいのか?この映画は、その疑問への取り組みの過程を映している。
かつて勇生の地元である手広ビーチに護岸工事の計画が持ち上がったという。彼はすぐに地元の集落で署名を集め、新聞社を連れて町長に直訴し、その計画を止めた。ただし、護岸工事を行う代わりに、トイレやシャワー室、駐車場などを整備する仕事を提案すると受け入れてもらえたという。
土建業の人々の仕事を奪うことなく、人工物の一切ないビーチを守ることができた。その経験は勇生の中に、島の人々が手を繋ぐことが何よりも大切だという大きな気づきをもたらした。
「島の人はみんな、根っこでは自然がいいって思ってる。でも、生業が土建業しかなかったんですよ。ただ、それだけっちゃもん」
映画には、もう何十年も海へと潜り、その環境の変化を観察している先達が登場する。彼らの言葉には、この島の変化を見守りながら、自分の愛する海のために何をすべきか静かに考え、実行してきた重みのようなものが宿っていた。あるいは、国の重要無形民俗文化財に登録されている、ショチョガマ、ヒラセマンカイという豊作祈願の祭祀が映されている。
琉球王朝の統治下、15世紀ごろに始まったと考えられているこの祭りは、稲藁や木材で組まれた櫓のようなショチョガマに乗って揺らし、倒すというもの。
午後には海から突き出た平瀬という岩に祈祷者が登り、祝詞を唱えるヒラセマンカイという祭祀が行われる。一日の中で、山と海、それぞれに祈りを捧げる祭りは、島のあり方をそのまま表しているよう。循環の中に人間が暮らしていることを、祭祀という形式を用いて末代まで伝えているのではないか。
勇生と妻の日菜子さん、それから同じくパタゴニアのサーフィン・アンバサダーである盟友の田中宗豊、映画の撮影にずっと帯同していたスタッフと一緒に、〈Can.nen Surf〉で、この映画を観た。何度も編集を繰り返して、ようやくほぼ完成というバージョンがアメリカから送られてきたのは、地元の先達を招いた試写会の前日だった。
「恥ずかしくて観てられない」と顔を覆うように笑っていた勇生は、短い映画が終わった後には涙ぐんでいた。
奄美大島の大いなる営みの中で、自分は導かれるようにして役割を得ているに過ぎない。ずっと島のために動いてきた先達の思いを汲み取って、光を当てられたことが嬉しいと言った。