千日前に佇む不夜城。味園ビルの巨大キャバレー、〈ユニバース〉の歴史を振り返る

なんば駅から歩いて5分。千日前にこんな巨大空間があったとは!味園ビルにあるライブホール〈ユニバース〉は、1960年代、巨大キャバレーとして名を馳せた。時代を超えて変貌を遂げるレジャービルの今昔物語。

初出:BRUTUS No.911「大阪の正解」(2020年3月1日発売)

photo: Misono Building (1960’s), Akira Yamaguchi / text: Yusuke Nakamura

創業者が夢で見た宇宙を再現した巨大キャバレー

もし、この空間がなければ大阪の夜の歴史は変わっていたに違いない。1965年に誕生した味園ビル。そこに登場した〈ユニバース〉は“世界最大級のキャバレー”という謳い文句で栄華を極めた。

台湾から鞄一つで大阪へ渡ってきたという創業者の志井銀次郎は、千日前で世界に通用するエンターテインメントを目指したそうだが、その志はまったくもって伊達じゃない。空中ステージに噴水、1階から4階までは円弧状の吹き抜け。そんな度肝を抜く空間に加えて、照明やスピーカー、それにダンサーの衣装まで自作の〈ユニバース〉仕様だったというから驚きだ。

千日前に佇む不夜城、味園ビルへ
60年代の〈ユニバース〉。ステージの上からダンサーが乗る円盤が降臨!

当時の写真を見ても、もはやSFの世界のようでまさにユニバース=宇宙だ。「創業者がまるでお告げのように夢で見てこの構想を実現したそうです」と話してくれたのは現在〈ユニバース〉マネージャーを務める竹原一平さん。当時、店内にはダンサー以外にホステスが常時500名いて、毎日1000人以上が来客。62年にはアメリカの雑誌『LIFE』で“JAPAN'S BIGGEST CLUB”と紹介され、海外からの観光客も多く訪れたという。当時「札束がレジに入り切らないから、足元の段ボールに札束を踏んで詰めていたと聞いています」というからその盛況ぶりが窺い知れる。

そして当時の芸能人にとっても大阪では外せないステージだったようで「高倉健と石原裕次郎と美空ひばり、以外(笑)はほとんどここのステージを踏んでいる」そうだ。70年代には山口百恵や浅田美代子など当時の駆け出しアイドルからの売り込みもかなり多かったという。ちなみに“浪花のモーツァルト”ことキダ・タローがピアノを弾き、10代の和田アキ子が専属歌手としてマイクを握っていたことも大阪では有名な話。

しかし75年、志井は時代の潮目を読みこのビルをレジャー総合ビルとして生まれ変わらせる。吹き抜けをなくし宴会場、サウナ、ホテル、スナック街が造られ、キャバレーは地下へ移動。5階の宴会場以外、大胆な改装工事を数年かけて行った。その結果、(当時のテレビCMで連呼された)“明日への活力”を求める大阪のサラリーマンに、朝まで過ごせる味園と大評判になった。

その後、バブルが崩壊し傾いた時期はあったそうだが、現在、地下の元キャバレーは大阪を代表する名物ライブホールとなり、2階のスナック街の入店は順番待ち、5階では連夜大宴会が行われている。昔に比べ随分と千日前の雰囲気が変化したと言う竹原さんだが味園ビルには変わらないものがあるという。「ここ特有の匂い。昔からそれは変わらない」。

言うなればそれは、むやみに洗練されない、ざわざわする街のアンダーグラウンドな夜の気配か。その変わらなさを考えると、今から半世紀以上前、夜ごとに老若男女が吸い込まれていった“宇宙”に思いを巡らさずにはいられない。

大阪 味園ビルの外観
味園ビル/2階のバーも含め、営業時間は各店舗によって異なるので、HPなどで確認を。