日本一深い海のほとりで、“異界”に生きる生物に出会う
19世紀半ばまで生物は存在しないとされていた深海。高圧で冷たい暗黒の世界は、調査研究を容易に許さず、今なお解明されていない多くの謎に包まれている。そんな未知なる領域に魅了され、深海生物を探求し続ける、作家で博物学者の荒俣宏さん。76歳となる今も深海魚を見るために極寒の海に潜る、その探究心は底知れない。
「博物学者ですからいろいろなことに興味はありますが、やっぱり深海は特別ですよ。何がすごいかと言ったら、浅場にいる魚と全く違う生態を持つ生物がいるということ。それは陸上で譬えるなら、人間と妖怪やお化けくらいに違う。つまり簡単に言ってしまえば、深海の世界は“霊界”に近いんです。沖縄の熱帯魚では物足りなくなった死期迫る老人ダイバーたちは、霊界の本質がこういう世界なんじゃないかと感じているんですよね」
その本質に近づくべく荒俣さんと訪れたのは、深海生物に特化した〈沼津港深海水族館〉。湾としては日本一深い最深2500mの駿河湾のそばという採取にこのうえない立地を生かし、深海魚だけで常時100種類以上を展示する。
「駿河湾は深いだけでなく、急勾配で裂け目もある複雑な地形に恵まれ、多くの深海生物が生息している。ここでやらなければどこでやるのかという好立地にあるのが、この水族館の最大の価値ですね。すぐ近くの大瀬崎でも、水面まで上がってくるフリソデウオやリュウグウノツカイなど、冬の夜の海に潜ればたくさんの深海魚と出会えますが、こうして気軽に眺めるわけにはいかないですからね」
エントランスに設置されたウェルカム水槽にツボダイを見つけて、しきりにデジカメのシャッターを切る様子からも、そのワクワク感が伝わってくる。世界2例目となる飼育下での孵化に成功したメンダコのかわいさを再確認し、体長2mを超えるタカアシガニの大きさに驚いたりしながら、じっくり時間をかけて生物を観察していく。
「泳ぐ深海魚を浅海の生き物と同じように水槽に入れて展示するというのは、近代にはなかった大進歩ですよ。生息する温度や環境の違いに合わせて、個別の小さな水槽で見せているので観察もしやすい。洞窟に足を踏み入れたかのような空間もよくできていますよね。19世紀の水族館は、こういう“異界”といったイメージでした。深海がまさに昔のワンダー(驚き)だった頃の水族館を連想させます」
未踏の深海の世界は、新たな発見に満ちている
シーラカンス・ミュージアムという名も冠したこの水族館では、3億5000万年前から姿をほとんど変えていないとされる“生きる化石”シーラカンス展示も名物の一つだ。2m近い体長の剥製3体のほか、世界で唯一となる冷凍標本2体を、貴重な遊泳映像とともに紹介している。その生態は今も多くの謎に包まれ、最後の秘境のロマンを掻(か)き立てる。
「四肢動物に似た姿を見ると、古代、魚類が進化した頃の構造がよくわかります。泳ぎに使う第2の背ビレの付け根にしっかりと肉がついていて、我々の手や足と同じように器用に動くのもすごい。剥製をよく見ると、目玉の周りに目を保護する油のまぶたが付いているんですね。暗い深海では目はいらないだろうと思っていたけれど、よく見えない中だからこそ、逆に傷つかないように大切にしているのかもしれません。これは知らなかったなぁ。深海魚も目が大事っていうのは、今日の大発見だった」
その後は目に注視して展示を巡り、様々な深海生物を写真に撮りながら観察。アカグツの展示では、エラ呼吸の瞬間をたまたま目撃し、その様子をカメラに収めようと「もう一回、お願いします!」と語りかけながら、水槽の前で7分以上、待つ場面もあった。
「アカグツはあまり呼吸をしないというのも、今日初めてわかりました。開館して以来、ここには何度も足を運んでいるけれど、そのたびに新しい発見がある。何度来ても興味が絶えないんですよね」
アカグツは取り組みの成果もあって、館でようやく長期飼育が叶った生物の一つ。深海生物が採取できるのは冬の数ヵ月に限られているため、ほかにも飼育の難しい生物を年単位で生かして展示し続けられるようにすることが、深海を冠に持つ水族館の使命だ。
「まだまだ展示や飼育が難しい深海生物も多い。透明な頭を持つデメニギスや、深海性のクラゲが水族館で泳ぐ姿も見てみたいものですよね。深海魚は生まれた後で大変化を遂げる生物なので、幼魚から展示して、一生を通してのライフサイクルがわかる展示なんかもできるといいなというのもあります。
でも、開館13年目で、水族館は第2段階に入っていると言っていいですよ。ボタンエビの水槽では、抱卵しているメスから小さな子供まで大小様々な個体がいて、一世代を見られるようになった。これは、僕たちにとっては非常に嬉しいことです。深海は宇宙と同じで、これからさらに面白くなる」
海洋科学や技術の発展とともに、新たに発見され続ける深海生物の世界。その最前線に触れられる水族館で、異世界にダイブしよう。
