グラフィックデザイナーの田中義久と彫刻家の飯田竜太からなるNerhol(ネルホル)。200枚ほどのポートレートを束ねて彫刻する、ぐにゃりと歪んだ肖像作品でも知られるアーティストデュオだ。
そんなネルホルの、公立美術館初の大規模個展『水平線を捲る』が9月6日から千葉市美術館でスタートする。およそ300点が並ぶ会場で、鑑賞者はどんな体験と出会うのか。ネルホルの2人と語るのは、神経美学の研究者である石津智大。神経美学とは、美的体験や芸術活動と脳の働きとの関係を研究する脳科学だ。
石津智大
2人と知り合って3年経ちますが、今回の展覧会には黄色いノゲシの立体も出るんですね。これ、僕が以前に衝撃的な鑑賞体験をした作品です。
田中義久
簡単に説明すると、まずフィールドワークで探した植物を動画撮影し、角度や時間が微妙に異なる静止画を、何枚も抽出します。次にそれらを重ねた「印刷物の積層」を彫ることで立体的な彫刻にする。僕は視覚的、飯田は彫刻的な視点から、どこをどう彫るかのドローイングをし、メールなどで画像共有しながら細部を調整するんです。
飯田竜太
例えば、画面を彫ると紙の断面の白い部分が出てくるので彫刻的な物質感は増すけれど、画像としての写実感は減ってしまう。対話しながらそういう一つ一つを調整し、制作を進めます。
石津
ネルホルの作品は、写真で見るだけでもカッコいいですよね。でも本当に驚くのは作品の前に立った時。「この向こう側に、今ここにはない複数の時間と空間があった」ことを感じるんです。知ることも触ることもできないはずの時間と空間を、まざまざと体感できる。
田中
僕らが「一つの時間軸を切り取った写真」を積層していくやり方を選んだ理由は、人はものを見る時、対象物と同時に、ものの背景にある時間と空間も捉えていると考えたから。
作品に表れる揺らぎは、僕たちが操作してコラージュのように作り出した揺らぎではなく、被写体が本来持っていた時間や空間や行為を、表出させたものでしかないんです。
石津
なるほど。実は人間の脳は、目の前の世界をありのままに認識することができません。例えば、顔は顔である以前に、花は花である以前に、線や面や色といった物理的要素の集合体です。
ところが脳はその純粋な要素を知覚することをスキップして、「これは顔」「これは花」と認知してしまう。ネルホルの作品は、その自動的に認識してしまうシステムをほどき、一歩手前にあるありのままの知覚へ導いてくれるように僕には思えます。
飯田
そんなふうに見てもらえるのは、とてもうれしいです。
石津
そういえば先日、香川県の直島でジェームズ・タレルの作品《オープン・スカイ》を見ました。日が落ちて、天空に開いた窓の向こうが暗くなった頃、突然、空の広大無辺さを感じたんです。
本来、脳は「無限」というスケールを無限として知覚できない。でも窓で切り取られた有限な空にアジャストすることで、僕の脳はその周囲にある広大無辺を捉えることができた。
やっぱりタレルはすごいと思いました。と同時に、今日ネルホルの作品を見て、同じすごさを感じたわけです。だって、普段は到達できないはずの、「今ここにない時間と空間」に導いてくれるんだから。この作用をネルホリズムと名づけたいほどです。
捲(めく)れない水平線を、捲る
飯田
時間や空間の制限が「ある」ものによって、時間と空間の制限が「ない」ことを作るというのは、今回の展覧会タイトル『水平線を捲る』ともつながります。地球は球体で常に回転しているから、僕らの力で水平線を捲ることはできない、つまり「制限あり」です。でもそれを捲ろうとすること、教えられた視点じゃない見方で物事を捉えようとすることが、豊かな体験をもたらす気がします。
石津
作品の素材はどう選ぶんですか?
田中
いろんな土地に一定期間滞在し、素材や題材のリサーチを行うことが多いです。近年だと別府とか太宰府。僕たちの場合は、歴史や文化を調べるというより、たまたま気になったものを掘り込んでいく感じです。
川の水がキラキラしているのはなぜだろう、道端の石の形が面白いな、というようなことをひたすら調べ、地元の人の話を聞く。自分たちの価値観を崩して目の前のことと全力で向き合ううちに、巡り巡って作品の輪郭が現れ始めることもありますね。
飯田
今回も美術館がある千葉市でリサーチを重ねました。オオガハスっていう、千葉市で発見されて生育に成功した世界最古のハスもテーマにしています。
石津
2023年に第一生命ビルで展示された作品も、そういう手法で制作したんですか?
田中
はい。戦後GHQに庁舎として接収された第一生命ビルには、今もマッカーサーの部屋が残っています。そのリサーチや当時の記録写真をもとに作品を作りました。といっても、ここでこんな事件があったという史実を拾い上げるのではなく、この部屋の絨毯やカーテンがめっちゃきれいだったんだなみたいな、存在や記憶の断片を素材にした感じです。
石津
ネルホルが絨毯に注目して作品にした。その行為を見ることで「マッカーサーもこの絨毯に惹かれたのかな」と思えました。遠く感じていた歴史が、いや、自分と関係なくはなかったんだなと。記録写真だけでは伝わらなかっただろう実在性にアクセスする体験は貴重でしたね。
「美」はいつ生まれる?
石津
今回、石の作品は出品されますか。
田中
石を練り込んだ紙の彫刻(ストーンペーパー)ですね。はい、並びますよ。
石津
僕はコロナ禍で誰とも会えない時にあの石を見て救われたんです。自然物ではなく、人が作ったまがいものだからこそ、世界には誰かがいるのだと心が温かくなった。だから僕にとってネルホル作品の美しさとは「人為の愛おしさ」です。2人が目指すのはどんな美しさ、あるいは「美」以外の何かですか?
飯田
美しさは人それぞれだし曖昧だけれど、言い換えるなら「積極性」かな。
田中
え、積極性?どうして?
飯田
リサーチしている対象のマイナス面や嫌な歴史が見えたとしても、肯定的な要素を捉え、積極的にアプローチする。そこに美しさが立ち上がってくるのがネルホルだっていう気がしているから。
田中
確かに。でも目指すという感覚ではないですね。僕らがものを作る時は、まずそれぞれが自分の役割において課題をクリアし、さらに互いが満足するところまで辿り着かなくてはいけない。そこで、立体を担う飯田と平面を扱う僕が対話するのですが、同じ言葉を使っているのに意味がすれ違ってしまうことも多いんです。
だから画像でやりとりしたり、対話を記録しておいて検証したり振り返ったりする。そのうちに、2人ともが「これいいね」となる接点を見出せて、それが完成という言葉に変わっている。
石津
とても美しい関係性ですね。それを聞いて点の話が浮かびました。点って定義としては面積を持たず、物理的には存在不可能な概念です。始点も終点も単独では定義できません。ただし、2本の線が交差した時だけ点が生まれるんですね。2人の線がおのおのの感性で走っている。どこかで線が交わって制作がスタートする。やがて再び交わって「美しいね」の同意が生まれた時、終点になる。
飯田
僕たち、線なんだ。面白いな。
石津
そして鑑賞者もまた一人一人の感性を持つ線。美術館に出かけ、作品の前に立つ鑑賞者の線がネルホルの線と交差するところに、これまで体験したことのない、水平線を捲るような感覚が生まれるんだと思います。