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奈良最深部、大峯奥駈道。 生きている信仰に出会う旅〜後編〜

2010年に平城遷都1,300年を迎え、注目を浴びる奈良県。日本の国家としての基本的枠組みが確立されたこの時代、吉野の地では日本独自の「山の宗教」が育まれていた。現代も生き続けるその信仰のリアルを求めて、世界遺産・熊野古道の聖地を巡る、再発見と再生の旅へ。

Photo: Kunihiko Katsumata / Text: Kosuke Ide

聖地へ向かう人々を迎える、
ニッポンの原風景。

秘境という人文・自然地理の概念にこれほど当てはまる地域は日本でもまずすくないといっていい」と司馬遼太郎が長編紀行『街道をゆく 十津川街道』に記した十津川村を南端に、北は金峯山寺が鎮座する吉野町まで、吉野郡は奈良県の総面積の約60%を占める広大なエリアだが、人口は県総人口の約4%に満たない。

「近畿の尾根」として知られる大峰山脈を中心として山々が連なる山岳地帯は交通手段が少なく、まさに「秘境」と呼ぶほかない地域である。

またそれらの山間を縫うように、やがて紀ノ川となり紀伊水道へと流れる吉野川、熊野川となって熊野灘へ注ぐ十津川・北山川など、多くの水系が豊かに走っており、滝や渓流、吊り橋なども多く見られる。その雄大で長閑な景観は、今や失われつつある「ニッポンの原風景」と呼ぶにふさわしいものだ。

吉野〜熊野地域で面白いのは、火山が一つもないにもかかわらず、多くの場所で温泉が豊かに湧出していることだ。中でも「奥吉野」と呼ばれる十津川村では、550年の歴史を誇る湯泉地温泉のほか、十津川温泉、上湯温泉と全ての温泉が「源泉かけ流しの湯」となっており、湯量の多い隠れた名湯として密かに知られている。

十津川村は日本一広い面積を持つ村であるが、その人口密度は約6人/km2。コンビニエンスストアもなく、携帯電話の電波が届かないエリアも少なくないこの地域は、現代の経済的、社会的観点から見れば明らかに僻地であり、過疎の問題を抱えた辺境の地である。

しかし、美しい山川と温泉のほか何もないとすら思われかねないこの村にだけ、東西に2本の世界遺産の古道が通っているという事実は、何を示しているのだろうか。

その解は、紀伊山地をめぐる聖地のネットワークを俯瞰してみることで見えてくる。北西に空海が開いた真言密教の霊場「高野山」、北には山岳密教である修験道の道場「吉野」。そして南東には、自然崇拝に起源する神道の霊場「熊野」。

この3点の聖地を結んだ三角形(その中間には天河大辨財天社がある)に大きくまたがるかたちで十津川村は位置し、その2辺が「小辺路」「大峯奥駈道」という2本の熊野古道に当たる。

つまりこの地域は、太古の昔よりさまざまな地域からやってきた多くの巡礼者たちが通過し、また彼らを迎え入れ、もてなしてきた土地であるということ。この地では、生活と古道の文化は現在も分かちがたく結びついている。

十津川村の南端、標高約400mに位置する「果無集落」は、小辺路の一部である小径沿いの、数戸だけの小さな集落。果無山脈を望む風景の中で、畑仕事に精を出すおばあさんの自宅には、敷地の真ん中を突っ切るように世界遺産の道が通る。

彼女は自宅の縁側を休憩所として開放し、日々古道を通過する参詣者たちに親しまれているという。
この容易に人を寄せつけない厳しい山中で、おそらく遥か古代から育まれてきたであろう、旅人と生活者の間に生まれた一期一会の交流に思いを馳せてみる。その光景こそ、まさに「ニッポンの原風景」ではないだろうか。

奈良・吉野から巡る聖地。

吉野・大峯奥駈道を含む
紀伊山地の霊場と参詣道。

各地から熊野三山へ至る6本の古道の中でも、和歌山・田辺を起点とする「中辺路」は最もよく知られた参詣道で、歴史的にも多くの上皇や貴族が辿ったルート。渡辺津からの「紀伊路」は世界遺産に登録されていない。

古道を知るための10冊。