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石川直樹さん、なぜ冒険を続けるのですか?

山を登り、海を渡る。極北からヒマラヤ8000mの世界まで上下左右に移動し続けながら記録を残す写真家が語る、人を魅入らせる「冒険」という行為の本質。

本記事は、BRUTUS「冒険者たち。」(2025年7月1日発売)から特別公開中。詳しくはこちら

photo: Naoki Ishikawa, Kazufumi Shimoyashiki / text: Kosuke Ide

「線路」を外れて、自分の目で確かめたい

「今から25年前、23歳のときに出演したドキュメンタリー番組を改めて観たら、インタビューで“自分は『冒険家』ではない”と言っていました。“冒険者”なら受け入れられるけれど、と。その意識は今までずっと変わっていないんです」

2000年、世界7ヵ国の若者たちとスキー、カヤック、自転車で北極から南極へ、地球を縦断する若き石川直樹さんの姿を捉えたその番組放送の時点では、彼は世間から「冒険家」と見なされることが少なくなかった。翌年の「世界七大陸最高峰登頂の最年少記録(当時)達成」もまたそうした認識を深めることに寄与しただろう。

ヒマラヤ、ダウラギリⅠ峰(8,167m)。頂上直下の斜面で迎えた日の出。撮影した石川直樹さんいわく「ダウンスーツの上からでもその温もりを実感した」瞬間。
ヒマラヤ、ダウラギリⅠ峰(8,167m)。頂上直下の斜面で迎えた日の出。撮影した石川直樹さんいわく「ダウンスーツの上からでもその温もりを実感した」瞬間。

その後の長年にわたる膨大な活動の中で、写真家としての実績と認知を確立してきたことは知られる通りだが、その石川さんが昨年10月、ヒマラヤ・シシャパンマ登頂に成功し、8000m峰全14座登頂を果たしたというニュースは、改めてその活動と「冒険」という概念との距離について問い直してみたいと思わせるに十分なものだった。

「もちろん冒険や探検への憧れはずっと持っています。小さい頃から読書が好きで『ロビンソン・クルーソー』『トム・ソーヤー』などの冒険譚を読んでいたし、世界の七不思議、イエティやマヤ文明、消えた大陸や宇宙の謎を扱ったものとか……誰も行ったことのない場所や誰も知らないことを知りたい、自分の目で確かめてみたいなあと。まあ子供なら誰でも興味を持つようなことですよ」

辺境から都市まであらゆる場所を旅してきた石川さん。常に自分なりのオルタナティブな視点で世界を見つめる、それ自体が冒険だ。

子供が冒険に憧れるのは普通かもしれない。しかし石川少年はその“強度”が少し、いやかなり違っていたようだ。

「中学2年生の冬休み、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んで感化され、坂本龍馬のお墓参りをしようと一人で高知へ旅しました。僕にとっては龍馬の人生そのものが“冒険的”と感じられたんですね。枠組みから外れて新しいことをする、線路のないところを歩くような、チャレンジングな生き方。そういう本を読むのが好きで、そこからバックパッカーの存在を知り、高校2年でインドとネパールへ行った。道路を象が歩いていたり、ガンジス川で遺体が流れてくるのを見て、月並みですが衝撃を受けると同時に、旅に強く惹かれていきました」

冒険、すなわち「線路を外れる」こと。東京に住む「安定した、ごく普通のサラリーマン家庭」に育った青年にとって、その魅力の源泉はどこに存在したのか。

「うーん、何だろう……ただ、権力や権威に対してすごく反発心があったんです。政治家とか教師とか、彼らが作ったレールの上を無条件に生きるのだけはやめようと。それは生来の気質もあるだろうけど、読んでいた本の影響が大きかったかもしれない。

特に野田知佑さんの書く文章は非常に挑発的だったんです。彼は大学を出ても就職せず、カヌーで旅する道を選んだ。“俺はこうやって生きている、お前はどんな生き方をするんだ”と読者を強烈にアジる、それを正面から受けた」

その“挑発”に乗せられるように、高校生だった石川さんは、当時、野田が取り組んでいた長良川の河口堰(かこうぜき)(三重県)建設の反対運動の現場に飛び込んだ。それは石川さんにとって初めての、実在の「冒険者」との出会いだった。

「制服を着て行ったので、“お前は何してんだ”と野田さんが気に留めてくれて交流が始まりました。“大学は行っておけ”と言われて入学した早稲田大学では授業そっちのけでカナダへ。先輩から“ユーコン川を下るなら安全対策をしっかりしろ”と諭され、“本当にそうなのか?野田さんの本には『ユーコンは寝てても下れる』と書いてあったぞ”とまた反発してしまい、カヌーを担いで一人で行った。頭ごなしに言われると、すぐ疑問を持っちゃうんですよね」

「だから何だ」と言う人もいる。でも本当に生きるためにやる

世界第3位の標高を誇るカンチェンジュンガ(8,586m)の第1キャンプ。ネパール・インドの国境にまたがる高峰だ。
世界第3位の標高を誇るカンチェンジュンガ(8,586m)の第1キャンプ。ネパール・インドの国境にまたがる高峰だ。

“王道”に背を向けて、自分だけの道を探すこと。それは一種の批評精神であると同時に、時に一般社会の価値観からの逸脱に至ることもある。大学院に進み写真や文筆の活動を始めていた石川さんにそんな世界を覗かせたのは、親ほども年の離れた神田道夫という男だった。

気球に乗って長距離飛行や山越えに挑み続けてきた神田は2008年、自作の熱気球で太平洋単独横断に挑み、海上で消息を絶った。間近で見たこの挑戦者の姿を克明に描いた著書のタイトルを、石川さんは『最後の冒険家』と名づけた。

「神田さんは本当に自分の生を燃やし尽くすために、死を賭して行動する人でした。そこにあったのは“本当に生きるために、死ぬことも厭(いと)わない”という矛盾です。僕は初めてエヴェレストを登頂したとき、マルコ・シフレディというフランス人のスノーボーダーと一緒のテントで過ごしたのですが、彼は世界で初めて頂上からスノーボードで滑り降りた。

しかしその後、彼に対して“シェルパにスノーボードをかついでもらって登った”という批判が起こり、翌年、一人で別のルートを滑って行方不明となりました。彼らが挑んだことは、社会にとって何の役にも立たないかもしれない。エヴェレストの頂上からスノーボードで降りた、“だから何だ”と言う人もいる。でも彼らは、本当の意味で生きたかったわけです。死んだように生きるくらいなら、生きるために死をも受け入れる、僕はそんな彼らのことを最大限尊敬しています」

石川さんにとっての「冒険家」は、純粋さを貫くアマチュアリズムの極北にあるものであり、職業ではない。そして、そんな先達の姿を見てきたからこその、自分なりの冒険がある。ここ10年以上もヒマラヤの山々に通い続けてきたのは、「シェルパの若い世代が出てきて先鋭的な登山を続けている。新しい時代を拓(ひら)きつつある彼らの姿を見届けたいという気持ちが強かった」。

登頂を支えるシェルパの存在は長い間、登山史の陰に隠れてきた。光が当たるのはいつも外国の登山家たちという状況の中、新世代のシェルパたちと並走する。そんな行為のために、8000m峰を制覇した写真家がいるだろうか。自分の目で見るために、道なき道を行く。冒険者の旅は続いている。

No.「1034冒険者たち。」ポップアップバナー