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仲條正義。時代と寝ずに時代を映す、反骨のアートディレクター

同じ雑誌のアートディレクターを40年以上続けるという難しさを、仲條正義はまるで他人事のように語っていた。人生の話においても、アトリエでの佇まいにも表れる、その飄々としたスタンスこそが、仕事との距離感、そして時代との距離感の大切さを感じさせるのだ。迎合することなく、自分の立ち位置を保ち続けながら、時代を表現することをやめなかった生き方を振り返る。

初出:BRUTUS No.849『真似のできない人生訓。』(2017年6月15日発売)

Interview&Text: Kunichi Nomura / Photo: Shingo Wakagi / Text: Toshiya Muraoka, Akane Fujioka, Keiko Kamijo / Edit: Hitoshi Matsuo

完璧にしすぎない主義

長い話ですよ(笑)。

私はね、新宿区になりましたが昔の淀橋区(*1)、鳴子坂下で生まれましてね。昭和8(1933)年生まれです。親父は千葉の農家の二男坊で、「手に職を」ってので深川で大工の修業して、当時の東京の再開発でこのへんに来れば仕事もあるだろうっていうことでそこに一家を構えたわけです。

戦争が始まって集団疎開があって、それで親父の里である千葉の飯岡ってとこに疎開しましてね。1年も経たないくらいに東京大空襲があって、母方の家とかみんな深川に固まってたんですが3分の2くらい死んじゃって。親父は終戦後、2ヵ月くらいで帰ってきましたかね。

私は特徴のない子でね。あの、弱虫で、運動はあまりできないし(笑)。東京から持ってった水彩絵の具で絵を描いてました。旧制中学が新制に変わる頃に中学に入ったら、絵の先生がいらして、「君、絵でも描かないかい?」と美術部に誘われました。

当時はマッカーサーの命で、勉強、勉強っていうよりも、クラブ活動が奨励されたものですからね。その先生が良い方で、やかましく勉強しろなんて言う人じゃなかったんだけど、色々影響受けました。当時、田舎の中学校でもね、結構画集とかね、美術全集とか、そういうものがちゃんとそろってまして。それを見るのが楽しかったですね。『みづゑ』(*2)とか、『アトリエ』(*3)とか。綺麗な雑誌もない時代ですよ。

建築雑誌と美術雑誌と、卒業するくらいに『美術手帖』が出たくらいですかね。デザインみたいなものは、それくらい。描けるものもね、千葉の田舎だと、丘陵地帯があって、それくらいしかないんです。やっぱり東京が懐かしかった。だから都会に対する憧れっていうのは強かったかもしれない。田舎の風景を描くのが嫌でね。

そのうち先生が、君はやっぱり美術学校に行って、絵をやった方がいいよってね。けれど親が相変わらず大工ですから、そんな収入があるわけじゃないし、大体絵の学校出ても中学か高校の絵の先生になるしかないんですよね。それに油絵をしたいと思ったんだけど倍率がすごく高い。

その頃には油絵出てもちょっとまずいだろうなあ、社会性はないと気づいてましたからどうしようかと見てると藝大、それもデザイン科がね、倍率が低いんですよ(笑)。
国立だから月謝は安いしね。当時で年間¥1200かな。入ったはいいんですけど、あんなに憧れた学校なのにうまいな、いいなと思うやつは3、4人で、後はなんだかね。

なんでこんなとこに来たのかなって思うくらいで、デザイン科のメインの先生が日展系の絵描きでね。はとバスのポスターとか頼まれるとその人が、エアブラシでかーって描いて。
へたな人じゃないんだけど、なにも新しいものを感じない。安保の時代でしたが、我々はノンポリだったので芸術祭に作品1枚くらい描いて、後は、酒飲んでお祭り騒ぎでした。

卒業するときに僕はのんきなこと考えてて、エラい先輩がいたり、厳しい会社に行くのやだなって思って。すぐに仕事を任せてくれるようなところに行きたいと思ってね。だから基本的に怒られてた。教授に「君、何考えてんだ」って(笑)。

それで少しは修業しなきゃ駄目だって先輩のいる資生堂に行きなさいと。でも資生堂は給料¥9000だったんですよ。安い方だった。味の素が¥13000近くていいなと思ってたんですが(笑)。

資生堂に入ったら大変でした。朝は8時半に行かなきゃなんないし、学生の時のアルバイトよりも給料が安い。ちょっと金が入りゃ飲んじゃうし。まあ当時はどっかのんびりしてましたから、夏場になると4時半から5時には会社終わっちゃう。中元にもらったビールを隠しておいて、たらいの氷で冷やしておいて、仕事が終わった途端に飲みだす(笑)。

入社するとまず資生堂の書体、資生堂明朝(*4)っていうのをみな勉強するんですよ。それが僕は嫌いであまりやんなかった。結局、それをやっとくべきだったなと思ってます(笑)。今でもゴシックはやりますけど、ロマン体とか明朝体って字を書けないんです。もうインチキでだいぶ書きましたけど、どうも納得いかない。だから僕はゴシックばっかりです。

あの頃はすべてカラス口(*5)なんかで手書きでした。ほとんど役立たずのまま、3年いたのかな。当時はその、パッケージを2、3個やらせてもらったかな。僕と藝大の先輩の中村さんと、もう一人先輩で遅い人がいて、その人は、嘱託だから朝遅くてもいいんだけど、僕たちは社員だから本当は遅れちゃいけないんですがね。

ところが中村さんが課長になって今度はちゃんと朝来るようになっちゃった(笑)。遅く来る僕が目立っちゃって、いつもタイムレコーダーが真っ赤。だんだんいたたまれなくなって辞めちゃいました。

京都細見美術館『フジノヤマイ』ポスター
京都細見美術館『フジノヤマイ』ポスター(2002年)。

ちょうどその頃、今もありますけど日本デザインセンター(*6)が、広告デザインにはアートディレクターが必要だという、アートディレクターシステムを作り上げた頃。NYではすでにそのシステムでやっていたんですが、それ以前のデザイン関係者は、僕は今でもそうだけども(笑)、イラストもやれば、文字も書くみたいな。1人で何でもやる感じだったんです。そんなんじゃダメだと。

デザインというのはディレクターがいて、デザイナーがいて、フォトグラファーがいて、ちゃんとシステマティックにやらないと成り立たないんだって。

「そういう組織にするから来い」って。河野鷹思(*7)さんのデスカができて誘われて入ったんです。僕は立体をやるとなったんですが、本来グラフィックの人間だから付け焼き刃では通用しない。なんか不満になってきて1年くらいですかね、辞めてフリーになっちゃうんですよ。27歳の頃でした。

独立してからは、親父とお袋がいる池袋の家で2、3年やってました。僕のところに来る仕事は、遊び友達みたいなやつが「これやってくれよ」っていうような仕事で、鳴かず飛ばず、まあ飛ばず飛ばずだな(笑)。その日暮らしをしてました。

資生堂1年目ぐらいの時に、福田繁雄(*8)と江島任(*9)という友人と、丸善にあったギャラリーでちょいと展覧会やろうよって話になったことがありまして。夏場に日宣美の展覧会が髙島屋の大きなホールでやるっていうんでそれにぶつけようと(笑)。

自信もなかったんですが3人で写真撮ったり、ポスターを3人で作って、40坪くらいのとこ埋めて。それでまあちょっと変なやつらがいるぞ、という感じにはなったんです。亀倉(雄策)(*10)さんや山城(隆一)(*11)さんとも少しは面識もありましたしね。皆さん、15、16歳上だったかなあ、怖かったですよ、神様みたいで(笑)。

それで向秀男さんのADで銀座・松屋のチラシ、当時は新聞の見開きを裏表2色で畳んだようなものですが、それと中吊りを3人交代で作る仕事をするようになりました。結構なお金になったんですが、それもデスカに行く時にすべて辞めてから来いなんて言われたもので、1年でデスカを辞めた後はその日暮らしだったわけなんです。そんな時に『花椿』(*12)の仕事をするようになりました。

資生堂にいた時に、販売促進部にいた山田(*13)さんというすごく編集センスのある人に声をかけられたんですよ。ルーズリーフで留められるようにした社外報なんていうものをすぐに作れる人で、それを地方の販売会社とかの営業の人たちに配るわけですよ。

で、そこのカット描いたり、タイトル文字作ったり。PR誌の研究会なんかで、いつも賞とっちゃうような人でした。その山田さんに、「仲條くん、ちょっとこれカット描いてください」「タイトルこう作ってください」、と頼まれて、辞める前はちょこちょこ手伝っていたんです。

その山田さんが、その後、世の中であまりにも認められて、宣伝部に配属されて『花椿』という雑誌を改革することになったんです。山田さんはわりに太っ腹な人で、サイズは最終的には小さかったですけれど、600万部も作って(笑)、日本全国にバラ撒いたりしてました。

僕にもまたちょっとやってくれないかと声をかけてもらってお手伝いを始めたんですよ。エディトリアルも写真も好きでしたから。それから始まって、気づけば40年以上もやってました(笑)。1968年からだとすると49年前に『花椿』の仕事を始めたことになります。エディトリアルのアイデアは一貫していたというか、時代の反映だと思ってましたが、写真が変わればガラッと変わりますからね。

パリ日本文化会館『デザインの世紀』展ポスター
パリ日本文化会館『デザインの世紀』展ポスター(1997年)。

当時は新しいフォトグラファーが大体向こうから来る、降ってくるみたいな感じで見つかるんですから、こんなに楽な仕事はないですよ(笑)。宣伝部から「ああしろ、こうしろ」とも言われなかったですしね。初期は言われましたよ。「こんなに暗い写真撮って」とかね(笑)。

「なんで新しいことをやっちゃいけないんだ」と怒ったりね。40年間やれたというのは、一つは資生堂がそこまで真剣に僕のことをチェックしていなかったのかな(笑)。決して上等なレイアウトとか品の良い何とかっていうのは、やったことがないんです。どこか生煮えだったり、あんまり完璧にしすぎないって主義があるもんですから。

その代わり流行っているやつはやらないとか、ちょっと人がやらない、それがちょうどいいかなと逆にやっていると当たったりすることもありますけどね。

やっぱり、50年代は革命的な新しさというものが生まれた時期だと思うんですよ。ちょうど、戦後、戦争が終わった頃に珍しいものが生まれたというようにね。

今はね、変にこう何か理屈っぽかったり、お利口そうで雑誌が面白くなくなっちゃっている感じがする。保守的になっちゃったんですよね。今我々が見えているものではない、ちょっとした水面下の、ちょっとした面白いものが実はいっぱいあるんだと思うんですが。

若い人と付き合わないと、そういうのは見えてこないから「今、どうなの」っていう話を飲んだりとかしながらね。『花椿』はずっとこのまま続くかと思ったらね、なんとなく終わることになって、「そうですか、そろそろ年貢の納め時か」ってね。

雑誌の表紙の絵を描くとか、チャリティでなんかの展覧会に出してくださいとか、今はそんなのばっかりで刺激があるようなものはしてないですね。

人生振り返るとやっぱり運が良かったと思います。世の中がガンガンと拡大していく時に社会に出られてね。でも「好きなことをやりましょうよ」っていう態度でやっていると、本当に気を許した人しかやらせてくれない。そうやって自分勝手な生き方をするからそれなりの結果しか出ないのかもしれない。

やっぱり苦労しなければいけないんだけど、苦労を知らなかった分だけ備えもないんです。よく仕上げるのは大変だし手間もかかるし骨も折れることなんですけれど、そういうことは苦労と思わないから。

ただ、今60歳の人は年をとった時に大変ですけれど、僕は84歳だからもうお迎えが来るのを待っているだけだから(笑)。あと10年どうしよっかっていうことを考えないでいいから楽ですよ。

(2021年10月26日、肝臓がんのため逝去。享年88。)

グラフィックデザイナー・仲條正義

*1:1947年まで今の新宿駅東口および大久保、落合にかけてあった区。
*2:水彩画を普及するための月刊誌として1905年に創刊。
*3:絵画技法の解説や外国のアートを紹介していた美術専門誌。アトリエ社は北原白秋の実弟、北原義雄が創立。
*4:資生堂の美意識を表現するために開発されたオリジナルの書体。
*5:ペン先の形状が、カラスのくちばしに似ている製図用の特殊なペン。
*6:1959年設立の広告制作会社。草創期はグラフィックデザイナーの亀倉雄策や田中一光などが活躍。
*7:河野鷹思(1906〜1999)。VANや旧第一勧業銀行のロゴなどをデザイン。1959年に総合デザイン事務所デスカを設立。
*8:福田繁雄(1932〜2009)。グラフィックデザイナー。錯視を利用した作風で、国内外の受賞も多い。
*9:江島任(1933〜2014)。アートディレクター。『ミセス』『NOW』などの雑誌ADを務めた。
*10:亀倉雄策(1915〜1997)。グラフィックデザイナー。NTTのシンボルマークや東京オリンピックのポスターなど数多の名作を残した。
*11:山城隆一(1920〜1997)。グラフィックデザイナー。代表作は「森」のタイポグラフィ。猫がテーマの作品も多い。
*12:向秀男(1923〜1992)。アートディレクター、コピーライター。日産スカイラインやTOTOの広告を手がけた。
*13:1937年に創刊した資生堂のPR誌で現在は年4回発行。最盛期の60年代後半には680万部を超えた。仲條は68年から2011年までアートディレクターを務めた。
*14:山田勝巳。『花椿』編集長を約6年間務めた後、ブティック〈ザ・ギンザ〉を立ち上げ、仲條は建物のディレクションや包装紙をデザインした。

参考文献/『12人のデザイン創造プロセス』石原義久編(毎日コミュニケーションズ)、『アイデア』350号仲條正義デラックス特集