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和菓子に寄り添う洋菓子のはなし。松本〈開運堂本店 パリの五月〉〈翁堂〉

古くからある洋菓子を扱う菓子屋には、和菓子屋スタートの店が意外と多い。洋菓子文化がなだれ込み、従来の和菓子のラインナップに少しずつ組み込まれていったのだろうか。中には和洋菓子店と名乗る店もある。長野・松本の2軒に注目してみた。

photo: Satoko Imazu / text: Michiko Watanabe

戦災を免れた松本は、国宝・松本城を頂く旧城下町。江戸とも京都とも異なる豊かな庶民文化に育まれた「菓子」の町でもある。江戸時代前期には、すでに多くの菓子店が軒を連ねていたという。また、遠く北アルプスを望む岳都でもあり、古くから山々に魅せられた西洋人が多く訪問していた。

松本民芸家具生みの親・池田三四郎を輩出し、染色家・柚木沙弥郎が学んだ町だ。このため、工芸ファンも多く訪れる。また、小澤征爾が愛する音楽の町でもある。

和菓子に寄り添う洋菓子。
どちらも静かに主張する

開運堂〉は明治17(1884)年、呉服業から製菓に転じて創業。洋菓子は昭和34(1959)年、3代目のときから、店の一角にショートケーキやクッキーを置き始めたのが始まりという。数年後、専門の職人を入れて、本格的に洋菓子に着手する。

そして、40年ほど前のこと。洋菓子部門を〈パリの五月〉として、壁で区切って和菓子部門と分離。「店名は、木村忠太さんの絵のタイトルからつけたものです」と、現社長の娘で、自身4代目となる常務取締役の渡邉恭子さん。そして、20年前の建て替えを契機に壁をなくし、半分を和菓子部門、もう半分を洋菓子部門とした。

洋菓子の人気は、パッケージに負うところも大きい。〈開運堂〉は30年近くの間、柚木沙弥郎に広告用の絵を依頼していたため、多くの柚木作品を所蔵。それを使って、パッケージを作ってもいるが、昨年発表したウェストンビスケットは、ちょっと特殊。

「その前年、山の日が施行されたことを受けて制作したものです。日本近代登山の父と呼ばれるウォルター・ウェストンを象ったものですが、柚木さんの母校が所蔵していた絵を使わせていただいています」(渡邉さん)。クラフト好きの人気を集めているそう。

開運堂本店 パリの五月

〈御菓子司 開運堂〉と
〈パリの五月〉が仲よく同居。

洋菓子は、愛らしいものが多い。例えば、クラフトファンに人気という「白鳥の湖」。原型は、スペインの修道院で作られていた「ポルボローネ」。口溶けソフト。クラフトフェアの時期にはこれを目がけてファンが押し寄せるとか。オンラインショップでも購入可。

本店から車で30分ほどの安曇野市には、工場併設の〈あづみの菓遊庭〉があり、工場見学もでき、常念岳を望む喫茶スペースで、ゆっくりと和洋のティータイムを楽しむこともできる。

長野〈開運堂本店 パリの五月〉店内ショーケース
〈パリの五月〉のフレッシュなケーキ類は、なかなかにおしゃれ。
長野〈開運堂本店 パリの五月〉ソフトクリームロボット
愉快なのは、ソフトクリームロボット。地場産業でもある精密機械技術を活用し、ソフトクリームを自動で作るロボットだ。300円でコインを買って投入すると、自然にできてくる。味は日替わり。おじさまも若人もぱくっと食べている。トライしなきゃ。

一方、〈翁堂〉は明治44(1911)年創業。「先代は和菓子一筋に邁進していたのですが、戦後すぐぐらいから、サバランやマーブルといった洋菓子を手がけるようになりました」と、3代目の木内基裕さんが言う。4代目の現在40代の息子夫婦は、和洋菓子を学び、新しいアイデアで創作中である。

昭和な雰囲気の和菓子のショーケースの合間に、タヌキケーキやアップルパイが並んでいて、何ともかわいらしい。生クリームのない時代に作っていたバタークリームのケーキも復活。若い人もなぜか懐かしがって、好評だという。タヌキケーキももちろんバタークリーム使用である。

和菓子店の洋菓子パート。おもしろうて、やがてどこか懐かしき。

翁堂

町に根ざした和洋菓子屋さんで、
今、洋菓子が人気上昇中

和菓子と洋菓子が混在する、昔ながらの、趣のある和洋菓子屋さんである。生クリームの普及とともに、瞬く間にバタークリームが駆逐され、クリスマスケーキからも消えて久しかったが、最近、また人気を取り戻している。こちらの洋菓子はバタークリームのもののみ。それが、静かな人気を呼んでいる。

長野〈翁堂〉店内