左手で摘まんだ台座に置かれた腕時計のムーブメントに、右手のピンセットで細かなパーツを組み込んでいく。根を詰めるときは、この作業が16時間も続く。眠っている以外の時間すべてじゃないですかと問うと、浅岡さんは「そう。眠くならないように、一日に何度もコーヒーを飲みます」とサラリと答える。組み立てだけではない。デザイン、パーツ作り、研磨、外装の仕上げまでをすべて一人で担うやり方は、腕時計が発明されたころの伝統的な方法と同じ。作業を分担する腕時計サプライヤーに所属しない浅岡さんのような存在は、畏敬の念をこめて「独立時計師」と呼ばれる。ただし、世界に数十人しかいない。1985年にスイスで設立された独立時計師アカデミーには35名が所属し、日本人は浅岡さんも含めて3名だけだ。
手先が器用で、子供のころからプラモデル作りが好きだった。「器用さは遺伝。母方がモノ作りの家系なんですよ」。最初に手にした腕時計は、中学の入学祝いでもらったシチズンの自動巻きクロノグラフだ。それが欲しいと両親に注文をつけたのも、プラモデル作りと関係している。「完成したプラモデルの写真を撮るときに、自室の片隅でスローシャッターを切る。特別な照明も無いような薄暗い場所で、シャッターの2秒とか3秒とかを計るために、ストップウォッチがついたクロノグラフが必要だった」。そのクロノグラフはいつしか壊れて無造作に引き出しに入れられたままだったが、年齢が30台後半に差し掛かったころに、ふと思い立って分解して修理してみた。機械式腕時計の構造が分かって、外装も磨いて新品のようになった。「生業にしようと考えたわけではない。興味本位の暇つぶし」。と言いながらも、その数年後には、国産初のトゥールビヨンをたった一人で作ってしまう。トゥールビヨンは、姿勢差でできる時刻の誤差を正す高級腕時計の代名詞のような複雑機構だ。「200年以上前の時計師であるブレゲが生み出したトゥールビヨンの設計や考え方が洗練されていて、共感できる」。
そのころグラフィックデザイナーの仕事をしていた浅岡さんには、モノづくりをするプロダクトデザイナーに戻りたい思いがあった。カメラ、車、さまざまなデザインにも興味がある。「なかでも、腕時計は小さくて制約が大きい。詰め将棋のような面白さ」。腕時計を通じて、自分はこういったものの考え方をすると表現し続けているのだと言う。「独立時計師としての作家性は、まず設計にでる。それをどんな機構に落とし込むのかに、センスが必要になる。そして、最後は集中力と忍耐力」。緻密な作業を数カ月続けて究極の一本を仕上げていく浅岡さんには、設計の段階で、すでに完成した腕時計が見えているのだ。
最初に、新しい1本のテーマが思いついて導火線になる。「それをどのように腕時計にまとめていくか。料理人が魚を見て、どんな一皿にするか考えるのに似た感じ」。浅岡さんは、パーツ作りも工程も洗練させて、スマートに進むのを目指している。そうは言っても、時計作りは生みの苦しみが多い。一つの工程で失敗すると、そこまでの作業をリカバリーするのに膨大な時間が取られる。「新作を思いついたとき、完成した腕時計の写真を撮るとき。最初と最後の作業だけが幸せ」。同じものを作るのは楽しくないから、注文は受けず、毎年1本だけ新作を発表するのが理想だと笑う。「たまには、緊張感のないプラモデル作りをやりたいなと思います。ロータスヨーロッパの12分の1モデルを、先日ヤフオクで購入しました」。手先が器用な浅岡少年に戻って、好きなプラモデルを作る時間的な余裕は、いまのところ見つかっていない。