棚を作ることは、
階層構造を作ること
「空いているのが棚ですよ。埋まっている棚は棚じゃありません」
10万点以上の標本を並べてなお空きのある虫の壁を前に、養老センセイは言い切った。虫採りを始めて80年になる昆虫愛好家は、今も自分の手で標本を作っている。
「虫を整理するための、要するに現在進行中の場所ですから、“もう満杯”ではダメなんです」
解剖学者の養老孟司さんが、大学や自宅に分散していた昆虫標本を収める別荘〈養老昆虫館〉を作ったのは2005年のこと。場所は箱根。昆虫採集にはもってこいの山奥だ。
建築史家でもある藤森照信が設計した建物の中央には2層吹き抜けの収蔵展示室があり、その3面が標本用の棚で覆われている。1階には「ドイツ箱」と呼ばれる大型の木製標本ケース。主役はヒゲボソゾウムシやクチブトゾウムシといった甲虫類である。
「虫の魅力は多様性ですね。気が遠くなるほど種類が多くても、すべてが似て非なる存在です」
かくも多様な虫たちを集めて標本にするために、一年の半分は鎌倉の自宅からここへ通っている。
「いちばん楽しいのは分類。分類とは階層構造を作ることです。“果物”という階層の中から、丸くて赤いのをまとめて“リンゴ”という階層を作るように、自分なりのまとめ方で整理するわけです」
分類して棚に収めれば頭が整然とする。分類さえ決まっていれば、新しい虫を入れる場所に迷わない。棚を作ることは分類することナリ。
「たぶん人間だけが子供の頃から世界を分類して生きている。それは言語を持つせいかもしれません」
例えば英語なら、DやOやGといった文字一つ一つに意味はなく、DOGとかGODとかいうふうに組み合わさる、つまり階層が一段上がることで意味が現れる。
「文字と概念が別々の階層にあるという階層構造の感覚が、我々には染みついている。それは虫にも動物にもない感覚です。蜂は六角形の巣を作りますが、同じ形を増やしていくだけですから、階層構造ではなく分類とは違う。増築はするけれど棚は作らないんです」
そう言いながら、展示室の隣にある標本製作室へ入っていく養老さん。机にはライカの光学顕微鏡と電子顕微鏡が計4台。そのうち1台で米粒ほどの虫を覗きながら、縮こまった脚をピンセットで成形し始めた。1頭分ずつ慎重に、針を刺したり台紙に貼り付けたり。
標本作りは、ろくでもない虫の存在を世に知ってもらう手段、とセンセイは言う。ろくでもない?
「そう。どこにでもいる虫ってこと。こうして1頭ずつ標本にしてラベルを付けて分類することで、誰も見向きもしなかった虫に形が与えられ、虫が生きるんです。世の中には標本にしなくちゃいけない虫が、果てしなく溜まってる。でも、果てしないからいいんです。終わりがわかってるようじゃ面白くない。だから、埋まっていない棚を見ると安心しますよ。まだまだ虫を採っていいんだなって」