民衆へ向かう新しい宗教とともに、
仏像も「チェンジ!」
「ではここで最新ニュースをお伝えします。本日正午頃から山口県下関付近の海上で源氏、平家両軍の戦闘が続いていましたが、午後4時頃に安徳天皇が入水、総大将の平宗盛は源義経に身柄を拘束され、一両日中には京都へ護送される模様です」
「お、明日から鎌倉時代やな。カレンダー替えといてんか」。なんてことになるわけがない。
武士の時代はまず東国から始まり、それが京都を中心とした西国にまで及ぶのは、承久の乱と蒙古襲来というふたつの事件を経た後のことだからだ。
それまでの歴史の表舞台は常に奈良〜京都の畿内限定であり、大和朝廷の成立以来、東国の武士たちは「派遣」として、経営者の興亡を眺める立場に置かれていた。
しかし源頼朝の出現で彼らが新たな歴史のページを記す主体に変わったことによって、社会や文化に巨大な地殻変動が引き起こされていくのである。
そのひとつが宗教改革だ。
平安時代末期、延暦寺や興福寺などの大寺院に属し、警備や管理運営などの実務を担当した下層の僧侶たちは、自寺の荘園の権利が侵害されたとか、他寺がより優遇されているなどと言い立てては朝廷へ強訴に押しかけ、これを阻止するために「派遣」された武士と小競り合いを繰り広げていた。
暴力をもって世俗の利害を主張する神仏に対して、信頼や信仰を保つことは難しい。さらに平重衡の南都焼き打ちによって、仏教国日本の象徴である東大寺の毘盧舎那仏が焼け落ちたことは、朝廷から民衆に至るまで、激しい衝撃を与えた。
安楽な暮らしをむさぼりながら、自らの往生を願うために莫大な費用を注ぎ込んで造寺造仏に熱中する貴族たちには、もはや期待できない。折しも末法の世にあって、心ある僧や仏師たちは皆、どうやって廃れゆく仏法を守ろうかと、必死に考えたはずだ。
もちろん仏教界の中心は、依然として貴族や朝廷と結びついて繁栄した延暦寺や興福寺など、京都・奈良の大寺院にあった。
しかし鎮護国家のためではなく、個人の救済を目指し、修行方法を簡略化して(寺や仏像を造らなくてもいい)一般民衆が入信できる形を目指した法然、親鸞、栄西、道元、一遍、日蓮らの改革は、仏像にも新しい息吹を吹き込むことになったのだ。
リアリズム肖像の最高傑作、
理知と意志の「武家の棟梁」。
伝源頼朝像
誰もが歴史の教科書で「武家の棟梁、源頼朝」と覚えた絵だが、近年モデルと制作年代に関わる異論が提出され、足利尊氏の弟、直義ではないかとされている。いずれにせよ鎌倉時代に起こった個性豊かでリアルな肖像画の系譜に属する第一級の作品だ。
来た、見た、勝った?
中世日本を揺るがす「侵略」。
蒙古襲来絵詞(「前巻」部分)
「元寇」を題材に制作された「蒙古襲来絵詞」は、蒙古(モンゴル)軍の武器や戦法を詳細に記録し、戦いの激しさを迫真の描写で伝えている。交易はあっても外交から遠ざかっていた日本にとって、自我と呼ぶべき国家意識を呼び覚ます一撃になった。
運慶、会心のデビュー作は、
宇宙の中心、大日如来坐像。
大日如来坐像
25歳頃に11か月をかけて造ったデビュー作。大日如来が結ぶ智拳印に力を漲らせるための、胸から肩、腕、肘、そして指へという動勢がうまく表現されている。また頬の張りが、いずれ奈良仏師を背負って立つ康慶の息子としての若々しい気負いを感じさせる。
デカいぞ強いぞ頼れるぞ。
僕らの味方、金剛力士見参!
金剛力士像(吽形)
捻られたような動勢から、像の発する気が、高く取られた天井へと舞い上がる。運慶が全体的なディレクターとなり、阿形像を運慶と快慶が、吽形像を定覚と湛慶が手がけたらしい。これほど完成度の高い巨像を、わずか69日で完成させた。いかにも頼り甲斐がありそう。