小川洋子
小説『ホテル・アイリス』は、最初に場所のイメージが湧いて書き始めた作品でした。島と海、アコーディオンを弾く男の子、ホテルやそこに置かれている小物など、いくつもの点が小説を書く私の頭のなかにあった世界と重なり合っていて、とても馴染んだ形で映像に、映画になっていることに、驚きと喜びがあります。
映画を観てから小説を読まれる方がいらっしゃったとしても、きっとふたつを地続きである場所として受け取ってもらえると思います。
永瀬正敏
そのご感想をうかがって監督やスタッフも喜ぶと思います!
小川
永瀬さんが演じられた翻訳家の男がどんな色のネクタイをしているか、マリという少女が働くときにどんな服を着ているか、小説ならばあえて書かない部分も映画だと全部映し出されるのもおもしろかったです。そうか、翻訳家はこんな時計をしてこんな靴を履いていたのか、と思ったりもして。
永瀬
そうですよね、役に合わせてひとつひとつ選ばれていて。
小川
小説を書いているときは観察者的な立場から眺めているからでしょうか、映画になったものを観るときのほうがはしゃいでしまいますね。自分が書いたものがいろいろな人の手をとおり違うものに生まれ変わって、子供が成長して親が思ってもみなかった職業についたかのような楽しみがあります。
小川
『ホテルアイリス』で描かれる二人、翻訳家とマリの関係は一方通行ではなくて、男の方がむしろマリに誘導されている、あるいは支配されているという面もあるということを、監督には最初にお伝えしました。
永瀬
支配―被支配という関係もそうですし、果たしてこの男は存在しているのか、実は少女の想像の産物ではないか、という可能性まで含めて、観てくださる方たちにいろいろな想像と解釈をしていただける作品になったと思います。僕も監督とはいろいろ話をしました。
たとえば僕が演じた男の甥とマリが筆談した紙の扱いをどうするか。紙を燃やした灰に触れた男がその指でマリに触れ、少女の頬にすこーしだけ灰がつく。そこにいくつもの思いを投影できないかと考えてみたり、別の場面では、全身でなく足だけ見せるほうがいいんじゃないかと意見を出したり。
小川
あの演出は永瀬さんのご提案だったんですね。
永瀬
はい。脚本を読んだあとに原作を読ませていただいたんですが、小川さんの小説があったからこそ、映画の時間軸の上でどこをどうデフォルメし、足し、削っていくかを探っていくことができた。映画を楽しんでいただいたあとはぜひ本屋さんで小説を手に入れてもらって、ここはこう表現されていた、ここは違うのか、と比べて楽しんでいただけたら嬉しいですね。
日本語と中国語、書かれた言葉が混じり合う作品世界。
小川
『ホテルアイリス』という映画はとても寡黙で、言葉の意味をやりとりするというよりも、意味を超越したところで人間同士がコミュニケーションをとりあっている。だから、日本語と中国語が混ざっていることもとても自然で、ここで話されているのは何語かということさえ重要じゃない。映画を観て、そんな境地に至っているように思えました。
永瀬
そのお話をうかがって、自分がこの作品になぜ惹かれたのか、ぜひ参加したいと思ったのかがわかったような気がします。
これまで何人もの監督、日本だけでなく海外の監督たちともやりとりするうち、コミュニケーションとはなんぞや、それは言葉だけに頼るものではないはずだ、そういう映画が作りたい、という話に何度もなったんです。「言葉の意味を超越したところでのコミュニケーション」と小川さんがおっしゃったものを、僕も『ホテルアイリス』の原作から感じとっていたのかもしれません。
この人生を生きたいと魅了されたキャラクター。
永瀬
人生を他の人と取り替えてみたいという願望ってありますよね。一人の人間のなかにもいろんな感情があるでしょうし。翻訳家の人生は演じて生きさせてもらったので、僕が取り替えるなら誰かなあ。マリとして世界を見てみたい気もするし、ホテルで働くおばさんとして生きてもみたい。渡し舟を漕いで人を観察するのもいいですね。
小川
渡し舟のおじさんいいですよね、つまらなそうな顔してね、いつも(笑)。
永瀬
素晴らしいですよね、リー・カンションさん。あの役をおやりになるためにずっとボートの運転の練習をされていたそうです。
小川
そうだったんですか!
永瀬
そういうのって映るんですよね、船頭という役がより具体的になる。撮影のときは実際に運転もしてらっしゃいました。
小川
画面に映るのは一瞬だとしても、ああきっと親の代からずっとこの商売やってるんだろうな、と観客に思わせてしまう手つきとか、そんな演技があるんでしょうね。
永瀬
説得力が増しますよね。これこそが映画の醍醐味だなと思わされます。
小川
海そのものが持つ象徴的な意味合いも大きいですよね。彼岸、向こう岸へ渡るということが死を意味するから、海を映すだけでいろいろなものが立ち現れてくる。生きている人が死ぬというのは、きっぱりとひかれた線を飛び越えていくのではなく、生きてるんだか死んでるんだかわからない中間地帯のようなものがあると思っていて、その地帯を大事に、私はいつも小説を書いています。
この映画もわかりやすく右と左に分けるようなものではなくて、そんなところも、私が小説を書いていたときに求めていたものと重なるようでした。
永瀬
この世なのかあの世なのか、現実と想像の曖昧さは鏡のモチーフとしても表現されました。「かがみのなか/わたしとあなた/あいのはて」というのは映画の宣伝文句ですが、そもそも人ってひとつではない、合わせ鏡に映るようにいろいろな面を持っている。そんなふうに『ホテルアイリス』も観て、楽しんでいただけたら嬉しいです。