市井の人々の愛に寄り添う映画作家
かつてアキ・カウリスマキに『過去のない男』(2002年)公開の際に取材した時、ベロベロに酔っ払っていたことが忘れられない。彼がイランのアッバス・キアロスタミ監督にビザを発行しなかった米政府に抗議して、ニューヨーク映画祭への参加を拒否した件について訊(き)くと、民主主義の凋落(ちょうらく)をボヤきつつグラスの焼酎を飲み続けていたのだった。何の気取りも、衒(てら)いもない姿で。
さて、この聖なる酔っ払い監督は、世界でいちばん小さな愛の形を見つめ続ける映画作家と言えるかもしれない。フィンランドの首都ヘルシンキの中でも“社会の片隅”という言葉が似合う寂れた場所で、さほど若くない男女が出会い、不器用な恋に落ちる。
ボーイ・ミーツ・ガールは美男美女や若者だけのものではない、とばかりに(生粋のアンチ・ルッキズム!)。彼らはまるでバスター・キートンのように無表情(デッドパンとも呼ばれる)で、サイレント映画の登場人物のように寡黙。チャップリンの『街の灯』のごとく、男は愛する女のために花を持って、ゆっくり愛を紡いでいくのである。

そんな彼の2018年以来の最新作『枯れ葉』は、まさにカウリスマキ節の純粋な結晶と呼べる傑作だ。労働者として慎ましい生活を送る男女が、名前も知らないまま愛の次第を進めていくラブロマンス。2人の傍らでは旧型のラジオから、ロシアのウクライナ侵攻のニュースが流れ続ける。名もなく貧しく美しく。終わらない世界の残酷さに抗(あらが)うように、やはり市井のささやかな愛の物語を描き上げたのだ。
しかし、かといって、その至福のスタイルはキャリアの初めから完成されていたわけではない。若き日の初期作品──例えば「プロレタリアート三部作」の最後を飾る『マッチ工場の少女』(1990年)では、人生に連鎖して降りかかってくる災いをシニカルな笑いで包む厭世的な人生観が前面化していた。
ところがカウリスマキは96年の『浮き雲』から、ほっこりする幸福な映画の味に舵を切る。何の変哲もない日常風景の中で、失業した中年夫婦の厳しい試練を描きながら、彼の映画で初めてのハッピーエンドを迎えることが当時ファンの間で話題となった。
カウリスマキいわく、フランク・キャプラ的楽観主義。この決定的な転換は初期作品の常連だった親友の俳優、マッティ・ペロンパー(44歳没)を亡くしたことも大きいようだ。現実はとても悲しいことが平気で起こる。だからせめて映画では、世界を精いっぱい肯定する道を選んだのだ。
さらに2011年の『ル・アーヴルの靴みがき』や17年の『希望のかなた』では、グローバリズムの波で深刻化する難民や移民問題をテーマに据えた。常に時代を見据え、主流に取り残された庶民の哀歓を丁寧にすくい取る。ユーモアとペーソスを交え、社会に抑圧される側に変わらぬ愛を持って徹底的に寄り添う心優しきシネアストだ。
ささやかな愛をめぐる3作品