彼はやっぱり僕の前に再び現れた
テレビ美術制作のとき、夜中に配達によく行っていた。出来上がったテロップを封筒に入れて、原付バイクで編集所やテレビ局に持っていくのが、そのときの僕の主な仕事だった。いつも必ず決まって、深夜三時に配達を頼んでくるクライアントがいた。彼はバラエティ番組のADで、僕と同い年だった。最初は、「お疲れ様です。こちらになります」と僕が言って、「お疲れ様です。ありがとうございます」と彼が返すくらいの最小限の会話しかしなかったが、半年、一年と通っていく中で、雑談をするくらいの関係にはなっていった。
ある夜、いつも通りに配達に行くと、「この間、帰省したんだけど、よかったらどうぞ」と白あんの饅頭を僕にくれる。自販機が置いてある休憩コーナーで、もらった饅頭をふたりで分けて食べた。そのとき彼は「俺、ドキュメンタリー映画作りたいんすよ……」と将来の夢を語っていた。「すごいなあ。自分は何がしたいかわからなくて」と僕は正直に返してしまう。「全然すごくないっすよ。きっと無理なんで……」と彼は笑った。
その夜からあっという間に二十年以上が経った。僕は紆余曲折あって、いま、物を書く仕事をしている。彼との最後がどうだったのか、正直憶えていない。彼が担当していたバラエティ番組が打ち切りになり、深夜三時の配達が消滅して、それっきりだったかと思うが、その後も何度か仕事上で会った気もしないでもない。きっと彼にも、僕の知らない紆余曲折があのあとあったに違いない。
何気なくこの間、本屋で立ち読みをしていると、「海外で活躍する日本人」という特集を組んだ雑誌の企画に目が留まった。その企画の中で紹介されていた一人の白髪の男性は、アメリカなど数カ国でラーメン店を経営している社長として紹介されていた。載っていた写真ではピンとこなかったが、男性の経歴を見て、あのときのADの彼で間違いないということがわかった。さすがに少しは驚いたが、心のどこかで「やっと見つけた」と思ったのもたしかだ。
僕は、ずっと彼のことを探していたことに、その記事を読んで初めて自覚的になった。あの夜に話していた「ドキュメンタリー映画を作る」という未来ではなかったが、彼はやっぱり僕の前に再び現れた。それがとにかく嬉しかった。やっぱりまだ頑張っていたか、と思った。
昨日、僕は新しいエッセイの連載の打ち合わせをしていた。渋谷のカフェで、なんとなくスケジュールや内容が決まりかけたとき、担当編集の女性が「ちょっと全然違う話なんですけど……」と語りはじめる。彼女から、同じ専門学校に通っていた一つ下の後輩だったということを、そのとき僕は打ち明けられた。そして、「卒業作品展。憶えてますか?」と彼女に訊かれる。
僕は広告を学ぶ学科にいたので、卒業作品は絵コンテや企画書を展示した。僕が卒業した専門学校は、卒業しても誰も広告の道には行けないような三流、四流の専門学校だった。卒業作品展を観に来る人たちも、学校の生徒、卒業生の親御さんがほとんどで、こぢんまりとしたものだった。それなのにそのとき僕は数週間、実家の部屋にこもって、大量の絵コンテと企画書を提出することを自分に課してしまう。
悔しかったんだと思う。世の中も、両親も、自分に対してまったく期待していないことが、心の底から伝わってきて、悔しかったんだと思う。その鬱憤を、僕は誰もまともに観に来ないとわかっている卒業作品展にぶつけてしまう。
本番当日、他の卒業生達がさらっと展示してある場所に、僕だけ辞書みたいに分厚い量の絵コンテと企画書を展示してしまった。その大量の絵コンテと企画書の内容は、残念ながら三流、四流の出来だったとは思う。才能も運も持ち合わせていなかった僕は、内容ではなく物量で勝負するしかなかった。その狂気の卒業作品を、一つ下だった後輩の彼女は、「ほぼ恐怖体験」として憶えていてくれた。
「あれからしばらく、あなたの名前をネットで検索していました。絶対事件を起こすか、何か作品を発表するかどっちかだと思っていたんで……」と真剣な顔で言われた。あのときの周囲すべてから浮いていた自分と、時を経て対峙したような気恥ずかしさを感じて、すぐには言葉が出てこなかった。
「だから、物を書いているって知ったときは嬉しかったです。犯罪のほうじゃなくてよかったなあと思って……」と彼女は笑う。僕はなんとも言いようがなくて、「お待たせしました」と告げてしまった。