「やっぱ、瓶漬けカルビだよね」
僕は横断歩道で、信号が青に変わるのを待っている。
隣に三十代くらいのカップルがいて、彼らもまだかまだかと待っていた。待ちながら、男のほうが興奮気味に、「しかし、さっきの肉うまかったよなあ〜」と言った。茶髪だが根元のほうはもう黒くなってきている女が、「絶対人生で一番うまかったと思うわあ」と唸るように言う。「わかるわあ」男も唸った。
女は男の腰に手を回し、「やっぱ、瓶漬けカルビだよね」とへばりつく。信号が点滅してから青に変わった。満面の笑みのふたりは、抱き合うように横断歩道を渡っていく。男は黒のジャージ上下に黄色のスニーカー。女も黒のジャージの上下に、発光しているみたいなピンク色のスニーカーを履いていた。
僕は信号が青になったのに、数秒動けなかった。美男美女というわけではない。申し訳ないが大金持ちという感じでもなかった。でも、とてつもなく幸せそうなふたりを見て、僕は数秒動けなくなった。信号を渡って、僕はとある映画館のトークイベントを観にいく予定だった。「ゴダールとトリュフォー、そして映画史について」という内容のイベントで、上映するポスターのデザインはもちろん繊細で美しく、トークイベントで登壇する脚本家は、雑誌でも引っ張りだこの知人の男だった。ここだけの話、僕はスタジオボイスや洋書、海外の写真集などを、ロクに読むわけでもないのに本棚に並べ、「違いのわかる男」を演出するようなペラペラ人間だ。過去におしゃれな雑誌のインタビューで、「最近のオススメしたい一本」という質問に、まったく面白さを理解できなかったのに、評価がバカ高かったイラン映画を「最近観た中だと、これですかね」と、したり顔で紹介したことがあるスカスカ人間だ。
年齢も五十を迎え、なんとなくゴダールやトリュフォーも理解している自分になりたいとここ数カ月思っていた。そこにきての「さっきの肉うまかったよなあ〜」だ。ゴダールの映画よりも、その日の僕には芯から響いてしまった。芯から響いて、しばらく彼らを尾行してしまった。
東京メトロの改札をくぐり抜けるように、彼らはなんの躊躇もなくパチンコ屋に入っていった。「よし!」僕は心の中でガッツポーズをする。彼らは一点の曇りもなく、自分に正直に生きているように見えた。
行きつけの渋谷の居酒屋には、畳敷きの座敷があって、そこでこの間、日本酒の飲み比べを常連のお客さんたちとしていたら、すっかり酔っ払ってしまい、気づいたら朝になってしまった。座布団を二つ折りにし、枕にして眠っていた。畳の上に直接寝てしまっていたので、背中が痺れて「イタタタ……」と言いながら目が覚めた。入り口のガラス戸が明るい。朝だった。
「起きたの?」店のアルバイトの女の子が、温かい焙じ茶を入れて持ってきてくれた。「もー、いくら毛布掛けても剝いで剝いで、大変だったんだから〜」と彼女は笑う。僕は自分が毛布に包まっていることに改めて気づく。毛布の柄は、サンリオのキャラクター『ぐでたま』だった。僕の足が隠れるように『ぐでたま』の毛布を掛け直してくれている彼女のマニュキュアも、『ぐでたま』なのが確認できた。だからなんだと言われても困る。もう、あまり肩肘を張らずに生きていきたいと、そのときしみじみと思った。またすぐ、肩肘を張ってしまいそうな自分もいるが、その日の朝、僕は確かにそう思っていた。