社会の周縁に生きる人々が、映画で輝く瞬間
家族を失った叔父と姪の再生の物語を綴った『アマンダと僕』で、東京国際映画祭のグランプリ&最優秀脚本賞をダブル受賞したのが2018年。ミカエル・アース監督の最新作『午前4時にパリの夜は明ける』もまた、主人公のある喪失から幕を開ける。
「映画を作るとき、私はどうしても人の不在や心の傷を描きたくなってしまうんです。誰もがみな一人ですから、寂しさも決してネガティブなものではなく。本作も少し悲劇的な面はありますが、最後には光が差すような映画になっていると思います」
枝優花
2018年の東京国際映画祭で、妹と一緒に『アマンダと僕』を観て感激したのがアース監督の作品との最初の出会いでした。監督の作品を見るとき、自分の創作への向き合い方と少し近しいものを感じることもあって。私は映画を作るとき、自分が経験していないことやわからない感覚についてはまだ描かないようにしているんです。そういう、自分の実体験とフィクションのバランスについて、どういうふうに考えて作ってらっしゃるのかをお聞きしたいと思っていました。
ミカエル・アース
自分が体験したこと以外、なかなかうまく撮れないという気持ちはよくわかります。私が作る映画にも、私自身がたくさん存在します。本作の家族の話については私が実際に体験したわけではありませんが、私の人生に近しいものが反映されています。
例えば、人生の中で回り道をすることだったり、とても空疎な時間を過ごすことだったり。もちろん、人生にはドラマ的な瞬間もありますが、何もない時間というものもある。そうしたなんでもない日常を細かく描くことによって、むしろ観客が共感するところがあるのではないかと思います。
枝
自分の実体験と離れたものを作っていても、登場人物たちと私自身は決して切り離せないもので。常に自分を投影して描いているので、アース監督の創作姿勢もわかるような気がします。
社会に馴染めない人を眼差す
枝
前2作では身近な人が亡くなったことによる喪失を描いていましたが、本作では生きている状態での別離による寂しさや孤独が描かれていました。私にとっては本作の、人とわかり合えないことによる喪失の方が悲しさを強く感じたんです。
ミカエル
たしかに、生きているのにわかり合えず離れた場合は、もしかしたら説得できるのではないかとか、ほかの関係性があり得たのではないかとか、別れによる怒りや寂しさを感じることがあると思います。枝さん自身もこうした喪失をテーマに映画を撮っているのですか?
枝
そうなんです、最近はこうしたテーマを描くことが増えました。実は2018年に『アマンダと僕』を観たときは、まだ「喪失」というものに対してそこまで大きな悲しみを抱いたことはなくて。
誰かが亡くなっても、どこかで見守ってくれているんだろうなと思ったりしていて。でも、そこから大人になるにつれ、この映画のように「わかり合えたと思ったのに……」という別れや喪失を何度も経験する中で、ふと寂しいと思うことが増えたんです。自分のことを理解してくれる人はいるのだろうか、と思ったり。
ミカエル
その感覚はわかります。私自身も時々寂しいと思うことはありますけど、寂しいというよりメランコリックな気持ちでしょうか。私なりに、そうした「孤独とは何か」「脆さとは何か」という問いに向かって映画を撮っています。
フランス語には適した言葉がないのですが、英語で「社会の周縁に生きる人」を意味する表現(outsiderやunderdog)がいくつかありますね。私は特に、そうした“異端”とも呼ばれるような人たちを描きたいと思っているんです。
枝
異端というとおそらく日本では「社会不適合者」などの言葉になると思うんですけど、私もそう呼ばれてしまうような、社会で生きづらい人について次作で描こうと思っていて。私自身、なんとか社会に馴染もうと、「常識とはこうだ」という社会的な着ぐるみのようなものを身につけながら、でも頭の中では理解できない状態で生きています。
ものを作るときには考えの本質が出るので、社会に馴染めず、何か孤独を感じている子をずっと描き続けていて。映画を撮ることでそういう人たちを救いたい、自分自身を救いたいという思いがいちばん強いですね。
ミカエル
とても近しいものを感じます。「こうしなければいけない」という常識に馴染めない人は、日本だけではなくどこにでも存在します。そういうものを映画で語るのは面白いことだと思います。
私自身も、子供時代に人の孤独や脆さに触れることがあって、それを映画の中で証言し、美しいものとして描くのだと思います。枝さんの映画をぜひ観てみたくなりました。