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『ナショナル・ジオグラフィック』編集者が語る星野道夫

自然フォトジャーナリズムの世界的権威、『ナショナル・ジオグラフィック』誌。128年もの長い歴史において、星野道夫は作品が特集として掲載された数少ない日本人写真家の一人である。彼はいかに見出されたのか、そしてどんな足跡を残したのか。当時の担当編集者をコネチカットに訪ねて話を聞いた。

Photo: GION / Interview: David G. Imber / Text: Mika Yoshida

『ナショナル・ジオグラフィック』誌は1888年の創刊以来、地球の森羅万象を写真ルポルタージュで伝えてきた、自然写真ジャーナリズムの草分けだ。伝統と格式ある『ナショナル・ジオグラフィック』米国版に特集として掲載された日本人写真家は過去わずか7名。岩合光昭に続き、2人目の栄誉を飾ったのが星野道夫である。

当時、星野を担当した編集者の名はロバート・ヘルナンデス。現在は出版界から引退し、大自然や探検のエキスパートとして講演や自然保護の普及活動に携わっている。その彼の自宅に伺い、話を聞いた。

何万人もの売り込みのなかで
掲載に値する才能を見出したのは

わずか2度だけ。

そもそも星野の作品は前々からご存じだったのですか?

「いや、ある日たまたま開いた封筒がきっかけで、それまで名前すら知らなかった。1982年に『ナショナル・ジオグラフィック』のフォトエディターに就任した私の業務の一つが、世界中の新人写真家から送られてくる売り込みを連日チェックすること。何千人、何万人もの売り込みに目を通し続けた4年間で、『ナショナル・ジオグラフィック』誌への掲載に値する才能を見出したのはわずか2度だけ。そのうちの一人がミチオなんだよ」。偶然の出会いだったのですね?

「そう、たった1通の手紙でね。しかもその書き出しが“ディア・ナショナル・ジオグラフィック”、とくる(笑)」。通常なら正式な担当部署の名称なりとも調べるところだが、この鷹揚さが微笑ましい。

星野が大学生の頃、アラスカ熱が高じて、そちらに住まわせてほしいとシシュマレフの村に手紙を送ったエピソードを思い起こさせる。その時書いた宛名が「メイヤー(村長)、シシュマレフ、アラスカ、USA」だけだったのは有名な話。あの時も半年後に、当の村長から返事が本当に届き、星野はアラスカ滞在の夢をかなえたのではなかったか。

星野の写真が初めて掲載された『ナショナル・ジオグラフィック』1987年8月号
星野の写真が初めて掲載された『ナショナル・ジオグラフィック』1987年8月号。ムースとその生態、アラスカの原野や狩人をデナリ国立公園で撮影した記録が21ページにもわたって大トリを飾った。当時の編集者ロバート・ヘルナンデスの手がページをめくる。

ミチオの才能と人柄に
会う人、誰もが魅了された。

「『ナショナル・ジオグラフィック』に連日舞い込む無数の売り込みの山から真の才能を見出すのは、積まれた藁を前に1本の縫い針を探し出すようなもの。だが、ミチオの写真を見た瞬間、こいつは本物だ!とわかった」。ロバートは星野とエアメールのやりとりで、交流を深めていく。

すぐさま企画を実現させたい2人だったが、別の特集とテーマがかぶるといった雑誌側の事情にしばらく振り回され、随分とじれったい思いをしたという。そして1987年、晴れてついにムースの写真が『ナショナル・ジオグラフィック』に掲載された。翌年にはカリブーで2度目の快挙を果たす。ちなみにこの頃の『ナショナル・ジオグラフィック』はまさに黄金期。なんと6500万部もの発行部数を誇っていたというからすさまじい。

「ミチオの抜きんでた才能は、『ナショナル・ジオグラフィック』の誰もが認めるところだった。それとは全く別の話として、私が決して忘れられないのが彼の人柄だ。ワシントンDCの『ナショナル・ジオグラフィック』本部に彼を招いた時も、ありとあらゆる人がミチオに惹きつけられた。柔和な笑顔とオープンな物腰で、出合い頭の30秒で相手の懐にスッと入り込む。しかも驚くほど謙虚な人だった」

世界のトップがしのぎを削る街DC、しかも天下の『ナショナル・ジオグラフィック』に集まる連中は一人残らず自己顕示欲の塊、とロバートは打ち明ける。「ところがミチオはまるで逆。あれほどの仕事を成し遂げながら、これっぽっちも鼻にかけない。我先に自分を誇示する世界にあって、彼は驚異だったね」

こうも続ける。「特に私たちの業界では一番の“自慢したがり”は熊のエキスパートという通説があるんだ」。彼らは熊をいかに倒したか、あるいは手なずけたかを吹聴し、熊自慢を通じて自分の強さをひけらかす。「だからミチオを同僚に紹介する時は、つい“熊エキスパートっぽさ皆無の熊エキスパート”って説明するのが常だった(笑)」。

誰よりも熊を熟知し、恐れていた星野を知っていただけに96年、事故を知らせる電話を星野のエージェントから受けた時はどうしても信じられずにいた。そして『ナショナル・ジオグラフィック』周辺の人々が星野を惜しみ、悲嘆に暮れる度合いも尋常ではなかったという。 

星野の写真が初めて掲載された『ナショナル・ジオグラフィック』表紙
『ナショナル・ジオグラフィック』1987年8月号。
『ナショナル・ジオグラフィック』1988年12月号の表紙
『ナショナル・ジオグラフィック』1988年12月号。

ロバート自身、かつて世界の辺境で暮らしては自然や人々を撮影するフォトジャーナリストとして活躍したキャリアを持つ。「奥地に乗り込み、途方もない冒険を次々やってのける腕利きの写真家はゴマンといる。だがミチオはその謙虚さと情熱のレベルにおいて、ほかの連中を格段の差で引き離していた」と回想する。

対象へ注ぐ熱意と敬愛、慈しみ。「アラスカは手強い場所だ。そもそもアラスカロケには膨大な費用と時間がかかる。過酷な自然環境は、アメリカ人男性でもまず耐えられるものじゃない。極限状態の土地に何ヵ月、何年も住み続けてアラスカを徹底的に肌で理解し、あれほどの写真を収めてみせたミチオに私は驚嘆させられっぱなしだった。肉体的にも強靱だったのだろうし、何より想像を絶する強固な意志の持ち主だった」

エスキモーの人々の中で暮らす星野を、ロバートは痛快に感じていたとも語る。「アラスカ先住民の人たちは、下の州のネイティブ同様、500年にもわたって痛めつけられてきた。酒や薬物依存、DVの蔓延で荒廃した共同体は閉鎖的で、よそ者を徹底的に拒絶する。

情熱と知識、智慧の集大成の一枚
1988年12月号。12ページにわたって掲載された写真は、星野の思い入れが特に強いカリブーだ。「ワンショットの背後にはミチオが何万匹もの蚊に食われ、凍傷や飢えと闘いながら待ち続けた長い月日がある。つまりこの一枚が情熱と知識、智慧の集大成なんだよ」

そんなエスキモーがミチオを見て、自分たちと似た容貌のこの異邦人は、白人と同じく我らの敵なのか?と一瞬迷ったはずだ。だがあの笑顔、あのキラキラ輝く真摯な瞳が、みるみる相手の心を溶かしたのだろう。英語がさほど流暢でもなく、エスキモーの言葉も話せないにもかかわらず」

自慢を一切しない星野だが、一度だけ誇らしげな顔を見せたことがあるそうだ。「DCに来ていたミチオが、誕生したばかりの我が子の話をしてくれたんだ。それはもう満面の笑みで、誇りにあふれていてね。私とミチオが直接会った回数は多くない。だがこの日の様子は今も鮮明に覚えている」。星野の急逝を受け、『ナショナル・ジオグラフィック』の誰もが長男・翔馬くんの健やかな成長と幸せを強く願ったと静かに語る。

ところで編集者の目から見た、優れた写真家の条件とは一体何だろう?

「自然科学の研究者にして教育者の第一人者、ロバート・トーリー・ピーターソンは私の恩師でもあるのだが、その彼に若い時分こう教わった。“卓越した才能の持ち主とは、作品に自分の人生経験を集約させ、人々に伝えることができる者”と。

写真や絵画、建築だろうと同じこと。わずか一瞬の筆さばき、その一つ一つに、本人の人生経験すべてを内包させた作品を生み出し、見る者の心へ瞬時に通じさせる者こそが優れた作り手だというのだね。そしてミチオはまぎれもなくその一人だった」

また、自分が写真家に求めるのは一枚の「決定的瞬間」ではなく、ストーリー構築の技量にほかならないと言う。「情景や状況のセッティングと、その高い完成度こそ、私たち編集者が欲しいもの。捉えたい風景を完全に掌握した写真家だけが生み出せる世界が展開するのが、ミチオの写真。ムースやカリブーはあくまで構成要素の一つ。彼は優秀なストーリーテラーでもあったのだよ」

ムースといえば、とロバートは懐かしそうに思い出す。「ミチオに関し、後悔していることが一つだけある。ミチオがアメリカにグリーンカードを申請した際、『ナショナル・ジオグラフィック』名義の推薦状を私が書いたことがあり、そのお礼として写真集『ムース』を贈ってくれたんだ。

その表紙が、何と本物のムースの皮!ミチオがともに暮らしていたエスキモーが仕留めたムースの皮をはぎ、鞣した上に煙で燻した皮革で特別装丁された貴重な代物だった」。ところがしみついた煙の臭いは思いのほか強烈で……。

「まるでアラスカの燻製小屋か、というくらい書斎に臭気が充満してね。5年は我慢したが、結局手放してしまった。今思えばあのアラスカの匂いや手触り、すべてがミチオの存在に直結する。とても悔やんでいるよ。彼がいなくなってからは、より一層ね」、と穏やかに微笑んだ。