620万ドルで落札された“マジカルバナナ”
「バナナと言ったら、安い」、そんな時代はもう過去の話。スーパーの果物棚から選んだ、ほんの少し熟れかけのバナナ。それをダクトテープで壁に貼り付けただけのものが、なんと620万ドルの「アート」になってしまった。そんなバナナ!
世界的コンテンポラリーアーティスト、マウリツィオ・カテランが2019年にアートフェアで発表した作品『Comedian』は、一本の食用バナナを壁に貼っただけの代物(記事冒頭の写真)。しかしこの壁に貼られたバナナがオークションで620万ドル(当時の為替で約9億6000万円)という驚愕の価格で落札されると、世界中のアート界はどよめき、笑い、そして終わりのない議論へと突入した。
さらに話題を呼んだのは、展示されていたバナナを韓国のアート学生が完食してしまった事件。SNSでは「食べるのもアートの一部」「再現できるなら意味は保てる」といった議論が飛び交い、食べられては貼られ、貼られては食べられるその姿は、むしろ「変化するアート」の可能性を体現するものとなった。
この一連の騒動は、「アートとは何か?」という問いを、ユーモアとアイロニーに満ちた方法で突きつけるカテランらしい演出でもある。観る側の固定概念をひっくり返すことで、彼は美術館の壁をただの展示スペースから、思考の起爆装置へと変えてしまうのだ。
そんな彼の記念すべき回顧展『Sussurro(ささやき)』が、2025年7月4日から2026年1月11日まで、ポルトガルの「Casa de Serralves(セラルヴェス・ハウス)」で開催されている。今回の展示は、言葉よりも沈黙が語る空間。バナナでゆさぶられた感覚の次には、きっと沈黙の中に生まれる問いとの出会いが待っている。

解釈の迷宮へと引き摺り込む、マウリツィオ・カテランの本質
1960年、イタリア・パドヴァで生まれたカテランは、庭師、郵便配達員、死体安置所の看護師など、社会の周縁を渡り歩きながら、1990年代にアーティストとして突如その名を刻み始める。彼の作品は、ユーモアと皮肉、軽快さと不穏さの狭間を行き来しながら、世界の美術界に衝撃を与えてきた。たびたび「アート界のジョーカー」や「道化師」と呼ばれる一方で、見る者に「余白」を残す作品づくりが、彼の本質だ。
ミラノのイタリア証券取引所前に中指を突き立てる大理石の彫刻『L.O.V.E.』、ローマ教皇が隕石に打たれて倒れる『La Nona Ora』。18金で鋳造された便器『America』、620万ドルで落札された「ただのバナナ」、『Comedian』。彼の代表作は、どれも現代社会の価値観に対する挑発であり、問いかけであり、説明なき挑戦でもある。
カテラン自身は、一貫して作品について詳しく語らない。インタビューでもはぐらかすことが多く、作品の解釈を委ねられた鑑賞者たちは、しばしば戸惑いながらも、その沈黙に引き込まれてしまうのだ。
現在はニューヨークを拠点としながら、ミラノに戻れば自転車で移動。時には市民プールで泳いでいることもあるという。作品が盗まれたり、バナナが食べられたりしても、まるで「計画通り」と言わんばかりの顔つきで嘲笑う。出来事すらもアートの一部に取り込んでしまう感覚は、まさに彼らしい。
マウリツィオ・カテランとは、正気だけでは辿り着けない場所にずっと立ち続けているアーティストである。彼の存在は、作品以上に私たちへの問いであり続けているのだ。

今、世界中のクリエイターに人気のアートスポット「セラルヴェス・ハウス」
「ポスト・ベルリン」。そんな呼び名とともに、ポルトガルは2010年代半ばから密かに世界の注目を集めてきた。温暖な気候、豊かな食文化、穏やかな人柄、そして海のそば。癒やしと創造の両極が共存するこの国に、ヨーロッパのクリエイターや精神的自由を求めるノマドワーカーたちがこぞって集まり、国境を超えたカルチャーがじわじわと根づいていった。
その中心のひとつが、ポルトガル北部に位置する第2の都市、ポルトの郊外にひっそりと佇むセラルヴェス・ハウス。1930年代に貴族の夏の別荘として築かれたこのアール・デコ様式の邸宅は、淡いピンクの外壁と整然とした庭園が特徴的。現在では、セラルヴェス財団が運営する広大な敷地内にある美術館・庭園と統合された文化施設の構成要素として機能しており、国際的にも評価を高めている。
そんな邸宅の扉をくぐった瞬間、空気の密度が変わったような静けさが訪れる。ここでは建築が単なる背景にとどまらず、展示と呼吸をともにしながら、作品そのものの一部として空間を構成している。カテランの回顧展『Sussurro』では、この建築とアートの繊細な対話が、かつてないほど濃密に感じられるはずである。

沈黙と出会う。『Sussurro』が響かせる問いとは?
『Sussurro』展では、マウリツィオ・カテランの代表作たちが、美術館的な並べ方ではなく、空間との関係性を意識した配置で展示されている。鑑賞者は作品を「見る」のではなく、空間を歩く中で予期せぬ形で「出会う」感覚を味わう。その瞬間から、言葉なき演劇が始まり、沈黙の中で、ただ感じる時間が流れていくのである。
たとえば『Him』。祈る少年の彫刻に近づいて初めて、その顔がアドルフ・ヒトラーであることに気づく。2012年、ポーランド・ワルシャワの旧ユダヤ人ゲットー跡地という記憶の重層空間に置かれた際は、大きな議論を巻き起こした作品だ。今回は、教会を思わせるような厳粛な空間で展示されることで、無垢な身体に重ねられた歴史的な罪と、「赦し」や「罪の継承」といった問いに、鑑賞者は静かに向き合うことになる。

『La Nona Ora』では、隕石に打たれて倒れる教皇が赤絨毯の上に横たわる。神聖さが自然の偶発性に晒され、信仰や秩序が鉱石ひとつによって揺らぐ。その姿は、生と死、信じることと壊れることの境界に光を投げかけている。

『Sunday』は、24金メッキのパネルに実際の銃弾が撃ち込まれた作品。富の象徴に暴力の痕跡が刻まれることで、「価値とは何か」「何がそれを脅かすのか」という問いが静かに浮かび上がる。この作品の前に展示されている『All』では、白布をかぶった9体の大理石彫刻が、匿名の死者として床に横たわっている。社会やメディアによって均質化され記号化されていく「悲劇」のかたちに、鑑賞者は自らの記憶を重ねてしまう。その空間の沈黙は、個人的な喪失を呼び起こしながら、死のリアルをそっと立ち上がらせる。『Sunday』と『All』は、暴力と記憶、価値と感情の深層を呼び覚ます作品同士として共鳴し合う。
今回の展示で改めて強く感じさせられるのは、同じ作品であっても、置かれる場所によって意味が変わるということだ。背景が変われば、鑑賞者の思考も感情も揺れる。そして、何度も見た作品にさえ、新たな問いが立ち上がる。緻密に構成されながら、掴みどころなく見えるのだ。それこそがカテランの手法であり、その思考の深みこそ、彼の作品が人の心に残り続ける理由ではないだろうか。
『Sussurro』で鑑賞者は、語られる言葉と、その言葉では触れきれない沈黙とのあいだに立つ。そこには、説明では届かない違和感や問いが、そっと浮かび上がってくる。明確なメッセージはなく、ただ心の奥で静かに響く「気配」だけが道しるべになる。その気配は、まるで誰かが耳元で囁いた言葉のように感じられるかもしれない。しかし、その声は、外から聞こえるものではなく、自分自身の内側から生まれてくる。だからこそ『Sussurro』は、展示そのものではなく、鑑賞者の心の深くから立ち上がる思索の残響なのかもしれない。
