
ポップスターの“いま”はステージにある。星野源『MAD HOPE』ツアールポ





5月17日、早朝
文・梨
今、名古屋から東京へ向かう新幹線の中で、この文章を書いている。
つい数時間前に私が体験してきた『MAD HOPE』は一言で言うと、素晴らしかった。その帰路ですぐにパソコンを開いてドキュメントを作ろうとするくらいには。
一応入場前にも、少しでもライブ前の空気感を書き留めておこうとスマホにメモを残していたのだが、今見返すと「すごーーーー」としか書かれていなかったので、少しずつ思い出しながら書いていくことにする。正直それが最も簡潔な感想なのだが、流石にそういうわけにもいかない。
開演前、星野源さんのファンしかいないホール入口の雰囲気は、いい意味でライブっぽくなかった。音楽よりもさらに広く、その場へ行くこと、そこの空気を吸うこと——つまりは「居ること」を全霊で楽しむような、朗らかな高揚感。海外旅行の空港にいるときの雰囲気に、どこか似ていた気もする。
席に着いた私の横では、ライブ用のタオルとTシャツを身に着けた二名の方がすでに着席していて、嬉々として色々な話をしていた。不可抗力で耳に入ってくるその会話には、私の知らない星野さんの何かに関する固有名詞がたくさんあって、その分からなさが心地よかった。
何かを全力で好きになっている人の熱情には、その周囲の人をもそっと温める力がある。
穏やかなざわめきの中で、マジで最高、という言葉が後ろから聞こえた。海外旅行の最中、ふと知っている言語が聞こえたときのような気分。そう、きっと、その共通言語さえあればいいのだ。恐らくそこに座っている全員が、これから起こることの「最高」さを楽しむために来ているのだから。
椅子に浅く座り直すと、ほどなくして会場が消灯した。ざわめきが歓声に変わる。
演奏中、私は何度か、「会場が呼吸をしている」感覚に囚われた。
星野さんの音楽を見て、聴いている人々が、ひとつの生物として息をしているような感じ。こう書くとコーレスが厳格なんだとか思われるかもしれないが、そうではない。
むしろ音楽ライブとしてはかなり自由な方だ。跳ねるように身体を動かしている人もいれば、ゆっくりと手を振っている人もいる。声出しも必須ではない。しかし、めいめいに楽しんでいる人々そのすべてが、緩やかに繋がって、深呼吸をしている。そういう感覚があった。
これはきっと、星野さんの創るものだからこそ成せる感覚なのだろう。あの場にいた人々は、全員が前に倣えで一方向を向いているのではなく、それぞれがそれぞれの見たい所を見て、楽しんでいた。そして彼が生み出すものは、そのすべてを「そのまま」で等しく受け容れる。そうして生まれた空間は、声や身の振り方よりももっと根源的な、息遣いくらい何気ない部分で人を繋ぐ、祈りにも似た力があった。
ライブが終わって会場を出る。特有の高揚と心地よい疲労感の中、会場にいた全員に、手渡しで、それぞれの日常が返されていく。めいめいに日常が戻っても、きっとその全員の中で、星野さんの音楽は薄く鳴り続けているのだろう。未だ興奮冷めやらぬといった雰囲気の静かな電車の中、そんな確信めいた予感があった。
私の『MAD HOPE』は、総じて、凄まじい体験だった。行ってよかったと心から思う。今の星野源さんの集大成として今回のライブがあるのだとすれば、そのあまりにも強靱なしなやかさには恐怖すら覚える。これからの更なる進化をこわごわと楽しみにしつつ、この辺りで筆をおくことにする。
そうだ。身体を動かしすぎて床に落ちた私の銀テを拾ってくれた後ろの方、ありがとうございました。もしかしたらこの雑誌も読んでいるかもしれないから、この場を借りてお礼を言わせていただきます。今も私の仕事場の目立つところに飾ってあります。







