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“植物の精”牧野富太郎に出会う、高知への旅

4月スタートのNHKの連続テレビ小説『らんまん』。日本の植物分類学の父とされる牧野富太郎は、主人公のモデルで、植物と日本人のありようを大きく変えた人物のようで……。その功績を知るべく、生まれ故郷の高知へと向かった。


取材協力/高知県

photo: Tetsuo Kashiwada / text: Ikuko Hyodo

牧野富太郎を知っていますか?

1,500種類もの新種・新品種を命名。日本初の本格的な植物図鑑を出版するなど、日本の植物分類学の基礎を築いた人物。研究のため出入りを許された大学と反りが合わなくなったり、私財を研究費に充てて実家の造り酒屋を傾けたり。破天荒な学者人生を送ったが、植物への情熱と知識は多くの人を引きつけ、後進の道標(みちしるべ)となった。

植物学者・牧野富太郎
高知県立牧野植物園 提供

高知から始まった、日本の植物分類学の大きな一歩

牧野植物園の温室
牧野植物園の人気エリアの一つ、温室。ジャングルゾーンで滝のしぶきを受ける熱帯植物は、緑もひときわ鮮やか。温室だけで、1,000種類以上の植物を展示している。

国内外、植物園はあまたあるが、高知には人名を冠しているという意味でも、世界的に珍しい植物園がある。4月スタートのNHKの連続テレビ小説『らんまん』のモデルになっている植物学者、牧野富太郎の名前を冠した〈高知県立牧野植物園〉だ。


道ばたや野山で見かける、名もなき草木。「名もなき」と思っているのは、単にこちら側に知識がないだけで、日本に生育する植物のほぼすべてに名前がついていて、図鑑で分類や生態を調べることができる。当たり前のように思えるが、これ自体が実はすごいことで、日本の植物分類学の先駆者である牧野博士の功績によるところが大きかったりする。

牧野富太郎の東京・練馬の家の書斎を再現したコーナー
東京・練馬の家の書斎を再現したコーナー。博士を囲むように本や標本資料が積み上がる。
牧野富太郎記念館 展示館
牧野植物園では植物の栽培・展示のほか、「牧野富太郎記念館 展示館」で博士の生涯や業績を紹介。

日本で見つかった植物は自分たちの手で解明を

牧野博士は江戸時代末期の1862年、現在の高知県高岡郡佐川町に生まれた。幼少期に両親と祖父を相次いで亡くし、造り酒屋の跡取り息子として祖母に大事に育てられた博士は、体は弱かったが植物を愛する少年だった。寺子屋や私塾で英語や和漢学などを学び、やがて日本全国に設置された小学校に入学したのは、12歳のとき。易しすぎる授業内容に飽き足らず、わずか2年で自主退学。以後、学校と名のつく機関で学ぶことはなく、ほぼ独学で植物の知識を身につけていった。

博士の最たる功績として挙げられるのが、植物の「記載」。特徴を学術的に記述し、記録することなのだが、1889年に日本人として国内で初めて新種ヤマトグサに学名をつける。それ以前は新種の植物を発見すると、海外に標本を送り、海の向こうの研究者に学名を付与してもらうのが慣例だった。しかし日本の植物は自分たちの手で解明していくべきだという、研究者としての矜持(きょうじ)が常識を変えた。そして自ら日本全国で精力的に調査を行い、生涯で1500もの植物を命名。収集した標本は、約40万点といわれている。

博士が描く植物図の緻密さや美しさも特筆すべき点。一般的に当時の植物学者は、画家と組んで植物の特徴を記録していた。しかし博士の場合は一人でそれが可能で、各部位や生長過程、解剖図なども一枚の植物図で表現。並外れた観察力や構成力、そして描写力を持っていた。

さらに全国で植物採集をしながら、教育活動にも熱心に取り組み、観察会や同好会、講演会を実施。植物を知ることの大切さを説き、出かけた先々で見知らぬ植物を手にした人たちに歓待され、質問攻めにされたという。こうした研究活動の集大成といえるのが、『牧野日本植物図鑑』。1940年に出版された“古典”でありながら、今なお研究者や愛好家のバイブルであり続けている。

数々の功績から日本の植物分類学の父とされているが、自身のことは「草木の精かも知れん」と飄々(ひょうひょう)と記している。94年の生涯を植物に捧げ、現役の研究者を貫いた牧野博士。仰々しさを好まない軽やかさは、野山にひっそりと咲く花のように、なんだか親しみを感じてしまう。

高知平野や四国山地を望む、標高146mの五台山(ごだいさん)。スモモやブンタン、栗など昔から果樹栽培が盛んな小高い山に、牧野博士は幾度か植物調査に訪れている。そして晩年、高知に博士の名前を冠した植物園を新設する計画が持ち上がり、「植物園を造るなら五台山がええ」という博士の言葉もあってこの場所に。

野山を散策するように、植物の宝の山に分け入る

牧野植物園の開園は、博士が逝去した翌年の1958年。起伏に富んだ地形を生かした園地は約8ヘクタールととても広く、庭園や広場のような憩いの空間もあれば、人工物を視界から極力排除して、自生の状態を再現しているエリアもある。さらに隣接する竹林寺に続く遍路道が園内を横切っていて、植物園というより野山を散策している気分になる。

一通り見て回るだけでもかなりの時間を要するが、一つの植栽エリアをじっくり観察して楽しむ人も。例えば正門から「牧野富太郎記念館本館」へのアプローチ。実はここ、入園料を払う前の無料エリアなのだが、高知県の山地から海岸に至るまでの植生を凝縮した「土佐の植物生態園」となっている。

土佐の植物生態園
正門すぐの「土佐の植物生態園」。国内外の植物が集まる場所で、まずは地元の植物がお迎え。

ちなみに日本に生育する植物は約8000種といわれているが、多様な自然環境を有する土佐には約3500種もの植物が生育しているそう。もちろんすべてが植栽されているわけではないが、山間の岩場周辺で見られる植物の配置や、海風にさらされ変形した枝葉の様子なども、現場で調査して再現。数十m歩くだけで、博士が植物に魅せられるきっかけになった土佐の自然の豊かさを体感できる。

時間が限られている場合は、博士ゆかりのコレクションを中心に鑑賞するのがよいだろう。「牧野富太郎記念館 展示館」の中庭には、博士が命名した植物や植物図に描いた植物など約250種類を植栽。ほかにも博士が晩年暮らした東京・練馬の自邸に現存する株を接ぎ木で殖やした木々が育つ「こんこん山広場」や、熱帯の植物が力強く生い茂る「温室」、薬になる草花の栽培や展示、研究を行う「薬用植物区」なども。

取材をした時期、博士が愛したバイカオウレンが可憐に咲いていた。今はもう見頃を終えているだろうが、季節や天候によって違う表情を見せるのも、植物園の魅力。草木との出会いを求めてどこにでも足を運んだ博士に思いを馳せながら、宝の山のような植物園を歩いてみよう。

足を延ばして、牧野博士ゆかりの地へ

高知県、特に博士が生まれ育った佐川町やその周辺には、ゆかりのスポットが点在している。牧野植物園と併せて巡ると、功績や人となりが、より立体的に見えてくるはずだ。