小袖から打敷(うちしき)や袈裟(けさ)へ。転生を重ねるきものがよみがえる時
百年、千年と時代を超えて染織品を残し、伝えていくことは、実は非常に難しい。例えば仏像であれば、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、とそれなりの数が残る。興福寺の阿修羅像(奈良時代)目当てに、すさまじい数の観客が博物館へ詰めかけたことをご記憶の方も多いに違いない。だが染織品となると話が違う。
上代なら法隆寺裂(ぎれ)、正倉院裂など、布の“断片”がわずかに残る程度。今年の大河ドラマで取り上げられる平安時代の女房装束となれば、一般視聴者の「見てみたい」度も跳ね上がりそうだが、これは実物が一切残っておらず、それこそ『源氏物語』や『枕草子』などの王朝文学や、《扇面法華経冊子》《源氏物語絵巻》(いずれも平安時代末期・12世紀)などの絵画資料を手がかりとするほかない。ようやく鎌倉時代頃になると、神社に奉納された神宝類の中に、きものとして形を保ったものが、ごくわずかに見られるようになってくる。
近世に至って少しずつその数が増えていく中に、いわゆる「きもの」としての形とは異なる形状のものがよく見られるという。染織史を専門とする共立女子大学・長崎巌教授による解説で、三度(みたび)きものの歴史を紐解いていこう。
「打敷といって、仏前・仏座を荘厳にするため、仏前の卓上を覆った布のことです。あるいは幡、いわゆるバナーで、これも仏菩薩などを供養する荘厳具としたものですが、これらの素材に、女性のきものが使われる例は少なくありません」
そういえば、と思い当たるのが、「振袖火事」こと明暦の大火(1657年)にまつわる、『八百屋お七』の物語だ。改変とアレンジを繰り返し、無数の物語が生まれたが、大筋の内容は似通っている。
〈富裕な商家の娘が花見の折に美貌の寺小姓を見初め、彼がまとっていたのと同じ色模様の振袖を作らせた。しかし娘は恋の病に臥せったまま亡くなり、その振袖は寺へ納められ、法要が済んだ後は古着屋へ売られた。この振袖に別の娘が目を留め、両親にねだって入手するものの、病を得て亡くなってしまう。再び古着屋を経て振袖を手に入れた3人目の娘も亡くなり、その因縁に気づいた3家は寺に頼んで振袖を供養し、焼き払おうとする。ところが住職が読経しながら火に投げ込むと、振袖は一陣の風に舞い上がり、燃え移った炎は江戸市中を焼き尽くした〉
これまで2回の連載でもご紹介してきた通り、女性と男性ではきものとの関わり方が異なる。身分に応じたきものを着ることが重要で、個人の好みを反映させる余地のない男性のきものに対して、女性のきものは個人のアイデンティティそのものともいえる。
「女性ときものは一体のものとして考えられていたと思います。ですから打敷や幡、袈裟などに改変されたきものの8〜9割は女性用でした。亡くなった女性の家族が、死後の安寧を願って寺へ奉納したのでしょう。また一定期間が過ぎれば、十分にその役割を果たしたとして、寺から古着屋へ売り渡すことは当たり前に行われていました」
こうして寺へ納められ、あるいは古着屋に売られたきものは、近代以降に収集の対象となっていく。
「戦前はきもの産業がもっとも繁栄した時期。旧呉服商系のデパート、あるいは丸紅のような商社は、高級呉服の需要に応えるため、コレクションを基に江戸時代のリバイバルも多数手がけました」
京友禅の名工・上野為二が製作した、《黒縮緬地近江八景模様振袖》もその一つ。原品の欠けた箇所を補い、あるいは独自の解釈を加え、といわばリバースエンジニアリングの手法で、18世紀のきものを見事に現代へと甦(よみがえ)らせた。
きもの用語解説
女房装束(にょうぼうしょうぞく)
公家女性の服装の一種。後宮に仕え、「女房」と呼ばれた高位の女官が着用する正装で、俗に十二単といわれる。白小袖に紅袴を穿き、単の上に袿を数領かさね、表着を着て裳を腰に着け、唐衣を羽織る。
古着屋(ふるぎや)
「古手(ふるて)」と呼ばれた、まだ使用に耐える中古品を扱う業者。他にも古本、金属類など、それぞれの専門がいた。