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インドのインディー映画を牽引する監督の傑作。『私たちが光と想うすべて』がこの夏公開

インド映画といえば、歌って踊ってという『RRR』のようなド派手なエンタメ作品を想像しがちだが、実はインドにもインディー映画やミニシアター系の映画は存在する。そして、今そのシーンを代表するのが、この夏公開される『私たちが光と想うすべて』を撮ったパヤル・カパーリヤーという監督。そして彼女は、初長編劇映画ながら、この作品で昨年のカンヌ国際映画祭のグランプリに輝いた。そんな最注目の監督に話を聞く。

text: Mikado Koyanagi

インド映画の未来をここに見る

この映画は、ムンバイの病院に勤める看護師のプラバとアヌ、そして食堂で働くパルヴァティという世代の異なる3人の女性たちを描いている。彼女たちは、カースト(階級)、宗教、言語などのるつぼとなったムンバイで、悩みや問題を抱えつつも、助け合いながら懸命に生きている。中でも深刻なのは結婚問題だ。3人は、過去、現在、未来と立場は違えど、みな結婚に起因する問題に頭を悩ませている。

「インドでは、長い歴史を通じて、“愛の政治問題”という言葉があって、誰と結婚するかということが、政治と深く結びついています。その大きなネックとなるのがカースト制度です。結婚問題が、直接政治的な問題になってしまうところが、インドの現実としてあると思います」

カパーリヤーは、もともとドキュメンタリストで、『何も知らない夜』は2016年の学生運動を描いたものだったが、そこに一人の女子学生の架空の恋愛物語、つまりフィクション要素を織り込むことで、学生たちの感情レベルでのリアリティを描いてみせた。ところが、この『私たちが光と想うすべて』では、逆に劇映画の中にムンバイに暮らす人々を記録映画のように捉えたショットを持ち込むことによって、町の持つリアルな息遣いをも浮かび上がらせている。

『私たちが光と想うすべて』
ムンバイの病院で働く、プラバ(カニ・クスルティ)、アヌ(ディヴィヤ・プラバ)、パルヴァティ(チャヤ・カダム)という3人の世代の異なる女性たちのシスターフッドを描く、パヤル・カパーリヤー監督の初長編劇映画。7月25日、全国順次公開。また、前作『何も知らない夜』も限定公開される。

「私は、フィクションとドキュメンタリーの要素を混ぜたり、並列して描くことに映画の可能性を感じています。そうすることで、真実を表現することに近づいていけるのではないかと思っているんです」

冒頭のムンバイの町を横移動で収めていくショットなどは、やはりフィクションとドキュメンタリーの垣根を越えるような映画を撮った女性映画監督の先駆者、シャンタル・アケルマンの『家からの手紙』などを彷彿とさせる。

「アケルマンはすごく好きですし、彼女の映画によく出てくる、車や列車にカメラを据えて町を横切りながらずっと撮っていくショットは、その町の建築や人々、ちまたの雰囲気なんかが感じられて、とても影響を受けています」

そんなムンバイの町を、時に恋人と幸福そうに、時に悩みを抱えながら歩くアヌに寄り添うように流れるピアノ曲が、この映画をインド映画という固定観念から解き放つ。何と、知る人ぞ知るエチオピアの修道女エマホイ・ツェゲ・マリアム・ゴブルーの「ホームレス・ワンダラー」なのだ。

「彼女の音楽を聴いた時に感じたのは、まさに恋の予感でした。ピアノ曲ということで、西洋の音楽には違いないんですけど、曲がペンタトニックスケール(五音階)でできていて、私たちインド人にも馴染みのあるものだったので選択したんです」

一方で気になるのが、国際的な評価は獲得しても、こうしたインディー作品が、インドでは誰もが観られる環境にあるのかということだ。

「1980年代頃までは、政府の援助があって、助成金が下りたり、国が運営する映画館もあったりしたんです。ところが、今はそういうものもなくなって、非常に厳しい状況ですね。ただ、そういった状況の中でも、技術的に機材が安価で手に入れやすくなってきたことなどから、インディペンデントで映画を撮る人は増えました。そういう意味では、シーンは成長してきていると思いますし、この映画も、なんとか一般公開されました」

最後に、監督の今後のプロジェクトについて聞いてみた。

「『私たちが光と想うすべて』を含む、ムンバイを舞台にした三部作の残りの2作を作っています。ムンバイという町の中で、社会的にオルタナティブな家族や社会構造のあり方を描くことをテーマにしたものですね」