〈おおはま〉に、贅沢な日常が戻ってきた。
向田邦子さんの妹・和子さんが赤坂に開いた〈ままや〉は、いい店だった。開店記念にいただいた織部の箸置きは、今も大事にとってあるが、店はもうない。さつまいものレモン煮や人参のピリ辛煮など、旨い肴が揃っていた。時折、邦子さんも顔を出し、一緒に呑むこともあった。
なにしろ、この店、邦子さんの発案だから、何かと行き届いていた。女性一人でも気楽に行けたし、〆には一口カレーもあって、ホッとできた。それまで男性のテリトリーだった酒場の門戸が、大きく開いたように感じたものだ。
あれからン十年。酒場には女性の姿が増え、女性店主も多くなった。鎌倉にある〈旬の菜と旨い酒 おおはま〉の店主も女性である。女性店主だからといって、女性をウリにするわけでもなく、女性客が多いわけでもない。客は大半がご近所勢。年配の方も多い、ごくごく日常使いの酒場である。
肴を作り、酒を注ぐのは主の大濱幸恵さん。この方、ちょっと変わりダネ。大学を卒業したのち、一度は公務員になるものの、日本酒好き、日本料理好きが高じて、30歳を機に仕事をやめて、調理師学校で日本料理を学ぶ。さらに、何軒かの店を経て2010年、東京・阿佐ヶ谷で独立。その後、鎌倉に移転して6年になる。
予約の際に、「一人でやっているので、お料理は少しお待ちいただくことになります」と言われるが、とんでもない。大濱さん、カウンターの中を縦横無尽に動き回り、次々と注文をこなしていく。待たずとも、ちゃっちゃか出てくる。しかも、客それぞれに細やかに対応しながら、である。
「今日のお通しは、漬け玉ねぎのせのカツオですけど、大丈夫ですか」。苦手なら、ほかの小鉢に変更してくれる。夏場はさっぱり冷製が多いが、冬場のお通しはあったかい汁ものだ。もうそれだけで、客はふーっと肩の荷が下りる。今日の疲れがどこかに吹っ飛ぶ。あー、来てよかった。そう思う。
初めて伺ったとき、メニューを見てぶったまげた。な、何だ、このバラエティは。軽く100種を超えるそのメニュー、これを一人でこなすというのか。よく見ると、ちゃんと日付が入っていて、本日のお通しまで記されている。つまり、毎日、アップデートしてプリントアウトしているのだ。それだけじゃない、Facebookにはレシピまでアップしている。この人、とんでもなくパワフルだ。
酒場の何でもない日常が最高の贅沢、最高の癒やし。
お酒の注文があれば、徳利と一緒に一升瓶も目の前にドンと置いて、どんなお酒か丁寧に説明してくれる。盃は小引き出しにびっしり入っていて、日本酒を頼むと引き出しが並び、好みの盃を選べる。
店主から積極的にサービストークするわけではないし、とくに愛想がいいわけでもないが、その仕事ぶりには目が釘づけになる。動きにまったく破綻がない。そして、動き続けながら、客の様子をよく見ているのがわかる。よくぞ一人でここまで。お見事、アッパレ。
シュウマイは注文を受けてから包み始める。刺し身は一切れから、何切れ食べたいかを聞いてくれる。30品ほどある本日の野菜小鉢はすべて¥300。野菜も魚も地のもの。どれもこれも丁寧に作られていて贅沢極まりない。魚小鉢、肉小鉢もいろいろあるが、豚の角煮に煮込みハンバーグといったボリューミーなおかずも揃っている。しかも、¥1000以下。
〆の一品がまた困っちゃう。おにぎりから麺類まで大充実。〆好きとしては迷路に入って抜け出せない。メニューの中には、四万十川とか宇和島とか九州とか地方名を冠したメニューもあるが、これは、「今、どこかに旅したくてもなかなか行けないでしょ。せめて、味だけでも旅した気分になってもらえたら」と考えたもの。その地のお酒と合わせて提供するという趣向。「そのうち、地域別にまとめてお出しできたらと思ってます」
純米中心の日本酒のラインナップもこだわり抜いているし、大濱さんのお酒の知識もすごい。酒好きな常連との酒談議を聞いていると、ほんとうにお酒が好きなんだなと、なんだかほのぼのしてくる。
実はこの店、普段は予約がなかなかとれない超人気店。私は、鎌倉の友人がとってくれた予約に、ちゃっかり潜り込んできた。ところが最近、遠方から来る客がめっきり減ったためか、フリの客がすんなり入れたりするめったにない状況になっている。
この店、何一つ威張っているものがない。ごくごく普通。その裏にある主の気合の入った仕事ぶりは、目の前の料理や酒が雄弁に語っているが、ここにあるのは、何でもない日常だ。今、誰もが願う小さな幸せがあふれている。