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町田康『家事にかまけて』第10回:キッチンシンクの汚れ

作家・町田康が綴る家事、則ち家の中の細々した、炊事や洗濯、清掃といったようなこと。

illustration: Machiko Kaede / text: Kou Machida

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芸術などをする場合、何が大事になってくるかというと、マア勿論、日々の修練ということは大事なのだろうが、それよりなにより、直観・霊感・inspiration、みたいなものが大事になってくる。なので、日々の修練をすごくやっても、霊感が自分を訪れなければなんの意味もない。

俺は若い時分より芸術に憧れ、自分が芸術家になれるとは思っておらなかったが、やはり芸術志向のようなものが自分の中に在った為、直観・霊感というものを重視して生きてきた。

なのでその分、日々の修練というか、日常的な努力みたいなものは非常にこの、蔑ろという訳ではないが、マアはっきり言ってあまりしなかった。

なぜかと言うと、努力してもinspirationが訪れなければ、その努力が無駄になるからである。

学校で勉強を習うときなどもそうで、例えば高等学校で、確率、っていうのを習ったが、試験の答案はすべて直感で書いた。またその頃、試験はマークシート方式というのが多かったから、日々、直感を鍛えていた自分はこんなことは大得意、という思いから、これまた直感で印を付けていった。

その際、心に大日如来を念じ、自分でテキトーに考えた真言的なものを唱え、腹式呼吸を心掛けていた。で、結果は如何だったかというと、言わなくてもお分かりだろう、そもそも才能に恵まれない俺のこと、全教科に於いて及第点を取ることができず、ヤケクソになった俺は学業を放棄して酒を飲んで暴れ散らし、とうとうパンクロッカーにまで落ちぶれてしまった。

しかし三つ子の魂百まで。なにかというと直感・直観を重んじ、日々の努力を蔑する思考法は還暦を遙かに過ぎた今も猶、しぶとく残って、学校時分と同じ失敗を今も繰り返している。

と云うことを今、流し台の水槽(シンク)、俗に謂うキッチンシンクを見ながら又、痛感している。

凡そ家の中には様々の設備がある。その中で流し台のシンクはトイレと並んでもっとも使用頻度の高いものであろう。設備の使用頻度が高いとなにが起こるかというと、それが次第に汚れていくということである。それをもっときつい言葉で言うと、汚辱に塗れていくということである。

汚辱の中で生活すると人間はどうなるか?

知らん。俺はそれは知らん。だけど、自分の例で言うと、確実に精神が乱れる。なにか棄て鉢のような気持ちになり、なにをやっても自分が、汚辱の中にうごめく虫、のような存在に思え、前向きな気持ちになれなくなる。

なのでそれを防止する為に日々の努力、少し汚れたなと思ったら即座にこれを清める、ということをやらなければならないのだが、今も言う通り俺は、そうした日々の努力ができない、という宿痾があり、俺方のシンクは気がついたときにはもはやどうしようもない程、汚辱に塗れていたのである。

といってヌメリや黒カビが生じていたわけではない。さすがの俺もそこまで放置はしなかったが、ただ水道水の中に含まれるミネラル分が固まって附着している。

と言うと、「なんだ、それだけか」と拍子抜けした気分になる方もあらっしゃるだろうが、これが度を超すと極度に穢らしく、業界では、ウロコ汚れ、と呼ぶらしいが、俺方の汚れは、ウロコよりもっと穢らしい、不潔なケダモノの涎が乾いて固まったような感じで、それが一面にびっしりとこびりついて、見るにつけ、精神を蝕むバイ菌がそこにあるような気がしてならぬのである。

というか、それにより実際に気持ちが落ち込む。

見る度に、俺はもうダメだ。俺は悪霊に取り憑かれた豚だ。そんなインスピレーションが頭に浮かんで、霊的にも経済的にもダメになっていく。

それではやはりダメだと思うから、一念発起、なんとかしようと思い、食器を洗った際、序でにスポンジで擦ってみた。しかし、そんな場当たり的な対策で落ちるような汚れではなく、そこに改善を認めることはできなかった。

マア、そんなこっちゃないか、とは思っていたのでさほど落胆せず、こんだ、下調べをした後にこれに挑んだ。下調べといって文献資料を読み込んだ訳でも、専門家の教えを乞うた訳でもなく、安易に検索しただけだ。そうしたところ、「クエン酸」というものを水に溶かして振りかけるとよい、と書いてある。なぜよいかというと、シンクにこびりついたケダモノの涎はアルカリ性であり、クエン酸の酸がこれを溶かすから、という事らしい。

それを盲信した俺は、すべての仕事を放擲してSM(スーパーマーケットの事)に参り、「おそうじ用クエン酸」という商品を購入して帰ってきた。六寸ほどの茶色い紙の袋に二八〇瓦入っていて価格は二八〇円である。ビニール袋ではなく紙の袋に入っているのがエコエコアザラク、それが高いのか安いのか俺にはわからぬが、値段の付け方も潔くて心憎い商品である。

袋裏の説明書きを見ると、「湿らせたスポンジにクエン酸をつけ、こすります。洗浄後は、充分に水ですすぎ洗いをしてください。」と書いてある。言われたとおりにやってみる。そうしたところ、おもしろいように汚れが落ちなかった。

と言うと、このクエン酸屋が嘘を言っているように聞こえるが、そうではない。それほどに俺方の水槽の汚れが度を超していた、ということである。だからもう諦めて死ぬしかない。

とは思わなかった。根気がないくせに、ひとつことにこだわり出すと、それが無意味なことであればあるほど執着して、いつまでも已めないという癖がある俺は、意地になってこんだHC(ホームセンターの事)に出掛けていき、「プロ推奨 ウロコ・水アカ用 ウルトラハードクリーナー」という商品を購入して帰ってきた。今度のこれはプラスチックの容器に入っており、二六〇瓦で一五〇〇円。中途半端にエコとか気にしていない点、強気な価格設定は、そのネーミング、プロ推奨という心強い文言も相俟って、「今度は大丈夫だ」という確信が身の内に漲った。

スポンジにクリーナーを含ませ、上体を傾けて擦る。そうするとシンク全体が白濁したような状態になる。数分待って水でこれを洗い流す。そうしたところ。

穢らしいケダモノの涎が完全に消え、シンクがピカピカになった。

と言いたいところであるが、ううむ。確かに汚れは薄くはなったが、その痕跡が、まるで呪いのように残っていて、完全には消失しない。ううむ。ううむ。確かに、死のうとは思わなくなった。かといって生きていける気もしない。池の蛙が粒を転がすような声で鳴いている。もしや、と思い、心に薬師如来を念じ、耳を澄ました。やはり霊感は訪れなかった。うくく。

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