大谷崎が著した「陰翳礼賛」を読んだのは三十年以上前で、何が書いてあったかは殆ど忘却して、頭脳の陰翳に紛れてしまっているのだけれども、それでもなんとなく茫と映る形はあって、それを一言で言うと、「なんでも白けさせてピカピカ光らせるのは西洋の美で、東洋、とりわけ日本のナニは暗闇に茫と光るところにあんちゃん?」みたいなことであったように思う。
それ故、部屋の灯りとか家の建具とか碗皿の類とかトイレの便器やなんかでも、西洋のやつは白くてツルツルしており、ピカピカにしてなんぼやけれども、日本のやつは、ところどころに闇が蟠って、それを美しいと感じて落ち着くんだよねー。みたいな事を言ってたと、俺の頭の中には変換されてある。
といってそれをずっと覚えていたわけではなく、長い間、忘れていたのだが一週間ほど前、俺はそれを思い出した。
そのさらに数日前、午前十時頃だっただろうか。朝の仕事を終え、俺は居間で一息ついていた。「茶アでも淹れたろかしらん。ほんでカントリーマアムでも食したろかしらん」そんな事を考えつつ、俺は窓の外の景色を眺めていた。居間の南側には大きな掃き出し窓があり、その窓のすぐ側まで葉を落とした紅葉の大木の枝が伸びて、その枝が冬空に映えて美しかった。遠くに碧い海が見えていた。
午前の陽が部屋の中ほどまで射し込んで濃い陰を作っていた。俺は思った。
ええがな。
そして、このええ感じにもっと浸りたいと思った。いっその事、今日はこのまま休みにしてこましたろかしらん。そんな事を思いつつ、又候、窓に映る景色を眺めて、俺はあることに気がついた。気がついてしまった。其れというのは。
窓が、窓ガラスが死ぬほど汚いのである。
考えてみれば最後に窓ガラスを拭いたのはもう何年も前である。その為、ガラス窓には埃が固まって汚泥となったものを中心に、得体の知れぬ汚れが附着して、本来、向こうの景色がクリアーに見えるべきところ、汚泥のフィルターを通したようになってしまっているのである。
それに今まで気がつかなかったのは、このように日光が射し込む状態で、ガラス窓を熟熟うち眺めたことがなかったからである。
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恥、の一文字が身の内を駆け巡った。こんなにも窓ガラスを汚くして生きている俺は率直に言って人間の屑。もちろん今から慌てて清掃してどうなる訳でもなく、取り返しのつかないところにまで来てしまっている事は重々承知だが、それでも身体の動くうちは努力したい。前を向いて死にたい。
俺はそう思って雑巾を絞り水拭きに掛かった。そうしたところ、ちょっと見、綺麗にはなるのだけれども、拭き筋、拭き斑が残って完全に綺麗にはならない。だけどここで挫けるわけには行かないから、凍結寸前の冷たい水で雑巾を濯ぎ、かじかむ手でこれを固く絞って再び、拭きに拭く。そうしたところこんだ、拭き斑・拭き筋に加え、百均で買ってきた雑巾の繊維片が附着して美しくない。というか、はっきり言って醜い。
意地になった俺は車を駆ってSM(スーパーマーケットの略)に赴き、ガラス専用の洗剤を買ってきて、これを惜しみなく噴射の上、新しい雑巾を用いて拭いた。
そうしたところ、さすがは専用の洗剤で、段違いに綺麗になった、と言いたいところではあるが、まだ汚れているように見える。
と言うのは当たり前の話で、窓ガラスには内側と外側があり、現段階ではまだ内側が綺麗になったばかりであるからである。そこでセーターの上にどてらを羽織って表に出て震えながら外側を拭きに拭く。外側は雨が直接当たり、土埃も舞うからさらに汚れており、何度も雑巾を絞って拭く。そして最後に気がついた一点の汚れを拭きとって終わりだ、と思ってさっと拭くのだけどもこれが落ちない。「なぜだ、おかしいじゃないか」と訝るが、そらそうだ、それは外側が汚い時には気がつかなかった内側の汚れだ、そこで内側に回ってこれを拭き取る。そうするとこんだ又、外側に汚れが残っているのに気がつく。で、また外を拭く。そうすると又、内の汚れを発見する。そんなことを繰り返すうち、次第に頭が茫としてきて、自分がなにか意味のわからないZENのような事をしているみたいな気分になって疲れ果て、雑巾を捨てて床に寝転がった。
いつの間にか日が高くなって、部屋にはもう殆ど射し込んでおらず、寒い。暗い。
窻(窓)も拭けないでゐる
天井を見るうちそんな自由律俳句が頭に浮かんで、もう一度窓の方を見ると、透明になった一枚のほか、もう三枚の白濁したガラス窓がそこにある。そして家全体で考えれば、和室の縁側に面して、仕事部屋に面して、それ以外にも、玄関に湯殿に閑所に、そして二階の部屋にも、もう考えるのも嫌なくらい多くのガラス窓があり、それらがすべて汚らしい、訳のわからない汚辱に塗れて濁っている。
暫くして俺は立ち上がった。窓拭きを続けるためではない。寒くてじっとしていられなくなったのだ。どてらを着ているのに。
俺が「陰翳礼賛」を思い出したのはその時である。
そう、悪いのは、陰翳に宿る美を放擲して無闇に家を明るくした日本の建築業界であって俺ではない。さらに言うと。
もし此の儘、窓ガラスの汚れを放置すれば、そのうちに土埃その他の汚れが塗り重なり、利休という人が提唱したような、詫び、寂び、みたいなことになっていくのではないか。それこそが我々、日本人にとっての美ではないのか。
俺はそう思った。そう思うしかなかった。長いこと植え替えを怠った鉢植えが枯死寸前だ。春まで保つだろうか。保つまい。おほほ。