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町田康『家事にかまけて』第6回:美しいキッチン

作家・町田康が綴る家事、則ち家の中の細々した、炊事や洗濯、清掃といったようなこと。

illustration: Machiko Kaede / text: Kou Machida

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俺がまだ小さい時分は、「腹、減った。なんか頂戴」と言って台所に入っていくと、「男の子が台所に入ってはいけません」と叱る母親があったらしい。らしい、と伝聞の形で書くのは、母親がそうした事を言わなんだからだが、しかしそう言う母親が確かにあった。

なんで一部の母親がそうした事を言うかというと、昔、唐土の偉い人が、「君子は庖厨を遠ざく」と言ったからで、日本では昔から、昔の唐土の偉い人が言った事はすべて正しいのでこれに盲従しなければならない、とされているからである。

しかし、近頃は規約が少々、改正になって、「確かに昔の唐土の偉い人には盲従しなければならないが、それと同時に、今の西洋の賢い人が言った事はすべて正しいのでこれにも盲従しなければならない。両者が矛盾する場合は、時代の変化を勘案すれば、西洋の賢い人に盲従するのがベター」という事になった。

それに従えば、「男子は厨房に入ってもよい。いやさ、ガンガン入って自ら調理や後片付けをした方がよい」という事になるので、今は男子がガンガン厨房に入っているし、むしろ逆に厨房に入らず、食卓で納まり返って、「おーい、お茶」とか言ってる男子は猛烈な批判を受けた揚げ句、項垂れて自室に戻り、じゃがビーかなにかを食べながら架空の美少女に思いを馳せ、孤独な笑みを浮かべ老年を迎えるのである。

ではなぜ昔の母親は、男の子に厨房に入ってきてはいけない、と言ったのか?というと、そこにあったのは、「そんな事したら出世できません」というlogicであった。

つまりどういう事かというと、男子というのは天下の事に思いを馳せるべきで、「焼豆腐と蒟蒻、味噌味で炊いたら旨いんとちゃうけ」とか、「そろそろ牛乳飲まんと賞味期限過ぎてまうなあ」など考えていては将来、人の上に立つような人間になって、高い地位とそれに見合う収入を得る事ができない、と考えていた、という事である。

西洋の賢い人は正しいに決まっているが、しかしこれについてはムチャクチャ合点がいく。なんとなれば、特に禁止されないまま、厨房に入り浸って少年時代を過ごした俺が、その後、まったく出世する気配なく、それどころか人の嫌がるパンクロッカーの群れに身を投じ、社会の底辺を這いずり回るようにして生きる、なんてな事になったからである。

まったくもってなんという事であろうか。あの時、母親が、「男の子が台所に入ってはいけません」と一言言ってくれてさえいれば俺はもっと出世していたのかも知れない。残念でならない。 

猫を肩に乗せながら家事をするイラスト

夏目漱石の名作「吾輩は猫である」の主人公・珍野苦沙弥先生は慶応年間に生まれた明治の男であるから厨房に立つ事なく、そうした家事は下女であるところの、さん、がする。だけど苦沙弥先生は出世しない。だから少年時、厨房にさえ立たなければ出世する、という事ではどうやらないように思われる。

苦沙弥先生の臥龍窟の近くには出世した新興資本家・金田氏の邸宅があり、この邸宅に忍び込んだ語り手の猫=吾輩、は邸宅の台所に入るや、その隅々までピカピカで整然としているのを見て、「(まるで大隈伯の)模範勝手だな」と感想を洩らすが、やはり出世すると台所も模範勝手《美しいキッチン》にできる。

しかし乍ら台所というものは、水を使うのは勿論の事、油を使ったり、後、味噌や醤油といううっかり零してしまいがちな、そして零したら染みになりがちな調味料を扱い又、調理をする関係上、魚のアラや肉の細片といった生ゴミも発生するので、おそらくは家の中でもっとも汚れやすい場所であると言える。

それ故、仮にそれが建築時、模範勝手、であったとしても、日々の清掃を怠れば、忽ちにして不潔で見窄らしい、底辺勝手、と成り果ててしまうのである。だから模範、底辺とは無関係に勝手・厨房・台所・走り元・炊事場・烹炊所・キッチンは、すべからく之を磨き立てておくべきである。

あまり詳しくないのだが、「家相」とか「風水」といった思想に基づけば、台所を模範的に美しくしておけば運が良くなって出世し、穢いままに放置すると運気が落ちてどこに行ってもアホ扱いされて苦悩する、とどこかで聞いた。やはり、「所詮、俺の勝手は底辺勝手だ」と開き直るのではなく、なんであれ清潔を保つ事は重要だ。

と思いながら昨年末。今年もまた出世できなかった身の上を嘆きつつ、使い終わった器を洗い、シンクに跳ねた水滴を布で拭きとる時、ふと、二十年近く使っているプラスチックの赤い水切り籠が壊滅的に汚れている事に気がついた。側面のワイヤーは表面の樹脂がモロモロになって中の金属が露出、錆が発生している。水受けの皿は全体的にヌルヌルして流れが悪くなっており、ところどころに白いカルシュームの塊がある。特にひどいのが裏側で、ところどころ黒ずんで、ヌルヌルはより一層ひどい。

「一體全體いつからこんな事になっておったのか! ちくともしらなかつたわえ」

驚き惑い、下女を呼んで清掃させたかったのだが家に下女がいない。そこで自ら清掃に取り掛かったのだけれども十数年放置した汚辱は容易に落ちず、完全に汚れを除去する事ができない。となると運気の方もアレなので、来年も、再来年も出世できないという事になる。

勿論、少年時、厨房に入ったという過去の罪業があるので、叙爵されたり、フォーブスのナニに載ったりなんて松の上は端から諦めているが、風水と家相を頑張れば、或いは並の上くらいにはなれるかと思っていたが、この侭だとそれすらも無理っぽく、慌ててパンコンを立ち上げて、模範水切りを買おうと様々に検討をした。しかるに。

なんという事であろうか。たかが水切り籠が卑猥なくらいに高価い。思わず、「なめとんのか」と画面に向かって喝叫した。だが画面は黙して答えない。ただ青白い光を放ちつつ、美しいステンレスの模範水切り籠を映し出すのみだ。いちいち価格を書くのも卑猥だから書かないが、こんなものは出世かなにかをしない限り到底買えるものではない。だけどこれを買わないと出世ができない。俺は一大矛盾境の中に座し、今年も汚れ、落ちていく。老い、朽ちていく。それも又たのし。そんな心境にすらなつてゐる。寒さ堪えてなつてゐる。

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