家の中にはちょっとした困り事が山ほどあるが、その中でもっとも困るのは家が狭い事である。というのは床面積の値が小さい事を指すのではない。床面積が一五平米しかない家が狭いのは当たり前だが、たとえ床面積が三〇〇平米あったとしても家というのは狭いものなのである。
と言うと一般的な住居に暮らす人は、「いや、それだけ広かったら広いでしょう」と思うかも知れない。しかしそうでない。なんでかと言うと人間は今の事のみならず、先の事をも考えて行動する癖があるからで、例えば今、十万円を持っていたとする。これが犬や猫ならばその十万円すべてを遣ってA5ランクの黒毛和牛や大間産天然本マグロかなにかを購入して今を愉しむであろう。しかし人間には先の事を考える癖があるので、今、この十万円をすべて遣うのではなく半分の五万円は明日の為にとっておこう。そして残った五万円のうち、一万円は老後のことを考えて貯金しておこう、なんて事を考える。
これと同じ事が家においても起こる。ただし、これらは未来の不安に駆られての事で、これが昂じると鬱病になるのだが、家という空間においては、同じく先の事を考えながら、不安よりも夢を抱きがちで、これがどれほど家が広くても家が狭く感じられる原因である。
具体的に言うと、今、布団がなくて古新聞にくるまって寝ている人があるとする。この人は、次に金が入ったら布団を買おう。布団で寝たらどれほどか寝心地がいいだろうか。と考えてふるふるする。そして実際に布団を買う。そして布団にくるまって眠り、その寝心地の良さを味わう間もあらばこそ、枕があったらもっといいのではないか、と考えたり、敷パッドというものがあったらかなり違うのではないか、と夢を抱く。
これは寝具についての事柄であるが家の中には恁(こ)うしたことが無限にある。例えばふかふかの大きな寝椅子があれば読書が捗るのではないか、とか、浄水器を買えば健康にええのとちがう?とか、雨水タンクを導入すれば水道代の節約になるのでは?などなど、いろいろとpositiveな事を考える。
それはつまり、自分の生活を良くしていこうとする、向上していこうとする、という事でそれ自体は実にけっこうな事でドシドシやっていけばよいと思うし、みんな実際にやっているのだけれども、際限なく向上できる訳ではなく、それには限界がある。どういう限界かというと、それがそう、家の広さ、という限界である。
というのはそらそうだ、いくら生活を良くしたいからといって、キングサイズのベッドを買い、「最後の晩餐」みたいなダイニングテーブルを買い、バーカウンターを買い、ホームサウナを導入し、フルコンサイズのグランドピアノを装備したらどうなるか。
そう、肝心の自分の居場所がなくなる。にもかかわらず人間は理想を追う事をやめられないし、可能な限りそれを追求しようとする。つまり、家の中というのは常に夢と面積がギリギリの鍔迫り合いを演じている場所と言えるのである。
なので狭ければ狭いなりに、広ければ広いなりに理想を追求、「ここになんとか二人掛けのソファー置けんかな-」と悩み、且つ又、「うーん、滝と室内プールあったら最高やねんけどな。無理かあ」と歎息するのである。
そんな悩みから解脱、悟りを開いたのがミニマリストという人なのだろうが、それとて「理想の家を追求する」という煩悩から解放されたわけではなく、彼らこそが逆に常に面積と容積について悩み抜く人なのかもしれない。
斯く言う俺も人間なのでそれから免れている訳ではなく、田舎のことで家はそこそこ大きいのにもかかわらず、広さ、については悩み苦しんでいる。
なかでももっとも困っているのが、本、の置き場所についてで、そもそも大量にあるばかりか年々、際限なく増えていきもはや書棚は一杯、家の方々に野積みにしてある。これが余の物であれば箱に詰めて納戸・物置に蔵(しま)っておくなんて事も或いは可能であるが、そうすると読もうと思う度に納戸に参り、季節家電、引っ越し以来開けてもいない段ボール箱、日本人形などをどけて、重い箱を引っ張り出し、梱包を解いて目当ての本を取り出して、それからやっと読む、という仕儀に相成るのであり、そんな閑人の真似はやっていられない。
つまり本というものは他のものと違って読もうと思ったらすぐに手に取れるよう、背表紙をこちらに向けて一覧できるようにしておかねばならず、それが為に非常にこの、場所を取る。それがなければ快適なソファーを置くことができるかもしれない。むっさ仕事が捗りそうなデスクチェアを導入できるかもしれない。マウンテンバイクを壁に掛けておけるかもしれない。長年あこがれ続けた大きなノッポの古時計を飾れるかもしれない。
それほどに本というものは場所を取っている。その割には手に取って読む本は限られており、八割方、いやさ九割方はもう何年も手に取っておらず、おそらく死ぬまで再読する事はないのでかという本が、その又、九割を占めている。
ならば譲れるものは人に譲り、売れるものは売り、残余のものは払い物として屑屋に引き渡してしまえばよいのだが、それができない。
なぜできないかというと、人間には未来への希望とともに将来への不安というものがあるからで、「もしかしたら将来、仕事の資料として必要となるかもしれない」とか「年老いて何もする事がなくなった時に読むかもしれない」なんてな事を考え、その時、購入するのは銭が惜しい、など様々に思案してしまうからである。
これは杞憂だろうか。必ずしもそうとも言えないのは、これまでに何度も、そしてつい最近も、懊悩の揚げ句、身を切るような思いで「流石にこれは読まんだろう」と判断してようやっと処分した本が必要になってEC書店で買う、という愚を繰り返したからである。
しかしそうやって一冊本を処分するのにいちいち懊悩するくらいだから、処分つったところで空くスペースは限られていて、それが将来の夢や希望に繋がることは殆どない。だけどその僅かな希望に縋りたい気持ちもある。
そんなことで俺は不安と希望の谷間に蹲り、日々、本が増殖して空間を蝕んでいくのを、為す術もなく眺めている。
芥川龍之介は文豪で偉い作家だからさぞかし蔵書も膨大であったであろう。芥川が死ぬ前に書いた、「唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。」という文章は存外この事を指しているのではないだろうか。違うと思う。