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山岳カメラマン平賀淳の遺志を継ぐ、ヤマケンの走り。「甲斐国ロングトレイル」が伝える物語

平賀淳という名前を知っているだろうか。野口健とのエベレスト登山やアドベンチャーレース取材、NHK『グレートトラバース』などで活躍した山岳カメラマン。平賀との出会い、後輩であるプロ・トレイルランナー山本健一との対話を、ライター村岡俊也が記録に残す。

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photo: Sho Fujimaki,Doryu Takebe / text: Toshiya Muraoka

ピレネーの山中で平賀淳と知り合う

山岳カメラマンの平賀淳と初めて会ったのは、2013年、フランスとスペインに挟まれた小国、アンドラ公国の山中だった。プロ・トレイルランナーの山本健一(通称・ヤマケン)の取材のために訪れ、私は雑誌のため、平賀はTBS『情熱大陸』のムービー撮影のためだった。彼らは山梨にある韮崎高校の山岳部出身であり、一つ先輩の平賀にとってヤマケンは、「健一くん」と呼んで可愛がっている後輩だった。

媒体は違えど同じチームだと、平賀は同い年の私をグイグイと巻き込んでくれた。とにかく明るく、喋り出したら止まらない。くだらない話ばかりで、自ら侮られるように仕向けるのが彼の人付き合いの方法だったのかもしれない。おかげでヤマケンとの距離も縮まり、レースを追いかけ共有する喜びを知った。翌年には同じくヤマケンの取材でフランス領レユニオン島に行き、平賀にも会った。

2013年、アンドラでのヤマケンと平賀
2013年、アンドラ公国でのヤマケンと平賀。カメラマンと被写体という関係が、しばしば先輩と後輩の関係に戻ってしまう。

甲府盆地をぐるりと囲む
すべての山を繋ぐ道を走る

百名山を一筆書きで巡るNHK『グレートトラバース』をはじめ、多くの山岳撮影を行い、世界中を飛び回る平賀と数年ぶりに会ったのは、2021年、ヤマケンがコロナ禍に始めた山梨県境を一周するプロジェクトの途中だった。その前年にヤマケンは、「甲斐国ロングトレイル」と題して、地元の韮崎駅を拠点に茅ヶ岳から山へ入り、およそ350kmを5日間かけて一周している。甲府盆地を形成する峰々をぐるりと繋ぐアイデアの起点は、平賀だった。

地蔵岳のオベリスクの奥に富士山を眺める
南アルプスの鳳凰三山まで帰ってくると、ヤマケンは地元に帰ってきたとホッとするのだという。薬師岳の奥に富士山を眺めるこの景色が、ホームの風景。

県境一周で約300マイル、およそ480kmの行程を映像に収めるべく、平賀は9日間ヤマケンの挑戦に帯同していた。私は、八ヶ岳へと入る直前のエイドステーションにヤマケンを訪ねた。既に400km以上走っていたヤマケンの背中をマッサージしながら、久しぶりに会った平賀とくだらない話をした。私が新橋駅前のビルに関するルポを出版したばかりで、「中国人マッサージ嬢と仲良くなってさ」と話すと、彼は怪しい中国語で捲し立てて、猥雑な街の面白さを語った。

山だけでなく、平賀は旅そのものが好きだった。ヤマケンはそれを聞きながら朦朧としつつ、「もっと起きていたいのに」と言いながら寝袋に入って仮眠を取り、また夜の山の中へ消えていった。平賀淳と会ったのは、それが最後になった。

エイドステーションで平賀と仲間達
2021年、県境一周プロジェクトの途中。カメラを構える平賀、右には応援に駆けつけた望月将悟の姿も見える。エイドステーションはいつも和やかな雰囲気。

2022年5月、山岳カメラマンがアラスカのクレバスに滑落して亡くなったというネットニュースを見た。いや、当初は生死不明だったかもしれない。記憶があやふやだが、もしやと調べると、そこに平賀淳の名前があった。それほど親しくしていたわけでもなく、国内外の山中で何度か会っただけなのに、彼は友達だったのだとそのときに強く思った。数日後にヤマケンから葬儀の日取りなどの連絡が来た。現地レスキュー隊の尽力によってクレバスの底から引き上げられ、遺体は日本に帰ってきたという。

茅ヶ岳から富士山を望む
いかに甲府盆地が山に囲まれているかがわかる。この見えている山すべてを繋いで、走るプロジェクト。ヤマケンと平賀が高校時代にひたすら登った茅ヶ岳から。

亡き先輩の思いを
大会の名前に乗せて

その年の秋、ヤマケンは甲府盆地を一周する「甲斐国ロングトレイル」をもっといろんな人に走ってもらいたいと、知己のトップランナー20名ほどに声をかけてグループランを行った。レースではないが、そのイベントを「HIRAGA JUN CUP」と名づけて、続けていく予定だという。トランス・アルプス・ジャパンレースの4連覇で知られる望月将悟や、『グレートトラバース』の田中陽希など、被写体として平賀と深く関わった猛者たちも参加していた。

ヤマケンの走り
「HIRAGA JUN CUP」の途中、岩場を走るヤマケン。

ヤマケンは、どうしてこの大会を開こうと思ったのだろう。レースから2カ月後、久しぶりに韮崎を訪ねた。

「山梨県の身延山武井坊住職である小松祐嗣さんは、トレイルランナーなんですね。日蓮生誕800年に合わせて、生誕の地から久遠寺まで繋いで375km走っている。彼とは昔から付き合いがあって、一緒に走っていたときに、人の最期ってどういうものなんでしょうね?っていう漠然とした質問をしたんです。彼は『俺も勉強中なんだけどって言いながら、人の記憶から消えたときが本当の死なんじゃないかな』って。それで平賀先輩の名前を冠した『HIRAGA JUN CUP』を続けていこうと決心がつきました」

平賀淳
アラスカで命を落とした山岳カメラマン平賀淳。

平賀に対して、どんな思いを抱いていましたか?

「僕の方が取材してもらったり、名前が出ることが多いけど、先輩の方が何十枚も上っていうか、次元が違ったと思う。彼はもっとすごい世界で生きていたから。世界中で撮った映像は、本当に多くの人が見ているから。僕は、高校時代から先輩に対抗する癖があったから、自分の物差しで測ってしまうんですよね。でも、向こうはどうだろうな? 僕は置いていかれたような気持ちでいましたけど。彼は山も旅も好きだけど、人が一番好きだったんじゃないかな。彼がいるだけでその場が楽しくなるような人でした」

それでも、県境一周のプロジェクトには、平賀はずっと帯同していました。『HIRAGA JUN CUP』には、彼の遺志を継ごうという思いもあるのですか?

「後輩がやっていたから、応援してくれる意味もあったんじゃないかな。彼は地元を見せたいって、そのためにかなり気合を入れて調査をしていましたから。珍しく日本に帰ってきているときにもたまたま道端で遭遇して、『何してるの?』って聞いたら、『調査してくる』って。高校時代から使っているボロボロのウエストポーチをつけて。先輩はどちらかというと山に登ったら町に下りて、エリアごとにしっかり見てほしいって思っていたみたい。

僕は山を繋いで、自分なりにルートをつくっているので、別物なんです。ただ地元の山を巡るという意味では同じだから。走っていて最高に楽しかったですね。先輩と縁がある人もない人もいたけど、みんな同じようなマインドを持っているランナーたちで5日間寝食を共にして、毎日およそ16時間走る。先輩との思い出を話したりしてね。

最後の鳳凰三山まで走ってきたときに、涙を流している選手がいたんです。トップ選手ですよ。世界中、いろんな景色を見てきているはずなのに、感情が溢れ出していた。海外レースじゃなくても心は満たされるんです。先輩も世界中を旅した人だったけど、地元のことを忘れてなかったから。『甲斐国ロングトレイル』は世界に誇れる道だって知っていたのかもしれない」

ヤマケンに話を聞いた韮崎駅近くのビルからは、彼らが通った韮崎高校が見え、いつもトレーニングをしていた山々が取り囲んでいる。ぐるりと見渡したすべての山を繋いだ道を5日間かけて走る。その過程には、人生が交差する物語があり、さまざまな思いが漂っていて、それらを包み込むようにして聳える山は、ただただ美しい。平賀淳が映像を通して伝えたかったのは、美しい峰々に凝縮された、そのような感慨だったのかもしれない。

ヤマケンは、「時折ふっと先輩を思い出して落ち込んでしまうから、また山に走りに行くんです」と言った。

山をバックに山本健一
山は変わらずそこにあり、ヤマケンは今日も走っている。