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刺繍の枠を超えて針と糸で表現を続ける沖潤子、美術館での初個展が開催中

二度と同じ形にならない無数の針目からなる刺繍は、生きることの中から“さらけでて”生まれた。その創作への思いとは。

photo: Yoichi Nagano / text: Shiho Nakamura

刺繍作家・沖潤子の個展「沖潤子 さらけでるもの」が、神奈川県立近代美術館 鎌倉別館で開催中だ。何度も繰り返し布に針を刺すことで生み出される作品は、圧倒的な熱量に溢れ、単に刺繍という言葉で括ることができない。絵画のようにも彫刻のようにも見えてくるから不思議だ。会場で、沖に創作への思いを聞いた。

自分の心と向き合い、30歳をすぎて作家の道へ

沖潤子の肩書は、“刺繍作家”だという。だが、その作品を見れば、「刺繍」と聞いて想像するそれとはだいぶ異なることに驚くだろう。すごい熱の塊のようなものが、針目の跡もわからなくなるほど糸ともつれ合って、布は引きつれたり、ぎゅっと硬くなっていたりする。ときには一枚の布に刺繍は収まらず、はみ出すために布が継ぎはぎされたり、錆びた鉄製の棒に引っ掛けられたりすることもある。

「作家としてのスタートが遅いから、還暦を迎える前に実現したらいいなって思っていたんです」という沖の美術館で初となる個展会場には、既製服に刺繍をほどこした初期の作品から、果実をモチーフにしたもの、人のような形をしたもの、過去の作品を裁断して継ぎ合わせた大きな近作までが並び、彼女の表現を総覧することができる内容になっている。

商品企画会社に勤めていた沖が、作家として本格的に制作を始めたのは30代後半に入ってからのこと。母親が遺した生地や糸巻きなどを使って、当時まだ幼かった娘が手提げを作ってくれたことが転機になったのだという。誰かから評価される商品を作らなければならないものづくりの在り方に疑問を抱いていた沖は、「ああ、もう自分に嘘はつけないな」と思ったという。衝動的に創作に没頭するようになった。

「とにかく家で手を動かしていることが幸せなんです。テーマとかコンセプトが最初からあるわけじゃなくて、とりあえず針に糸を通して始めます。中心からぐるぐると渦巻きみたいに進めて。縫っているときはスイッチが入っちゃって、まるで別人みたいになっていると思います」

刺繍にとらわれず、“さらけでる”ものを

ひと針ひと針、刺してできるのは、設計図を持たない偶然のような作品だ。そこには、うっと唸りたくなってしまうほど蠢く何かがある。彼女のなかにある哀しみ、怒り、慈しみといった感情が、まるで祈るように、何億回と針と糸で紡がれてきたのかもしれない……と思っていたら、沖はあっけらかんとこう言った。

「実は、私の刺繍は違反ばかり! “下手の長糸、上手の小糸”ということわざがあるんですが、上手な人ほど要領がいいという例えなんです。つまり、針に通す糸が長すぎると裁縫が下手な人ということ。でも私なんて、すごく長い糸でちくちく縫ってしまうし、糸の塊をそのまま縫い付けてしまうこともあって(笑)」

そうやって刺繍という枠にとらわれず、内から溢れ出す表現とひたすらに向き合い続けてきた。「これからもつくり続けてできたものを、皆さんに見てもらえたら嬉しいです」。

そんな彼女だが、どこかで見たり聞いたりした言葉を書き留めるのが中学生の頃からのクセなんだそう(会場には直筆のノートも展示されていた)。展覧会名にもなった「さらけでるもの」も、ラジオでいつか耳にした言葉だ。

「“さらけだす”のではなく、“さらけでる”というのがいいなって、ずっと引っかかっていたんです。私の作品は、勉強した結果から生み出されたものではありません。今までの人生に積み重なったもののなかから出てくるもの。だから、自分をかっこ良く見せようとか、そういうのはもう、なしにしたいんです」

鎌倉のアトリエを訪ねて

沖潤子の自宅兼アトリエは、鎌倉の山に寄り添うように立っている。写真に写っているのは、彼女と8年ともに過ごしてきた家猫の「つぶ」。玄関先には、近所の猫たちがひっきりなしに出入りする。彼女は作品の制作時期に入ると夜型生活に入り、ほぼ家の中で創作に没頭しているという。部屋にはインスパイアされてきた絵や写真などの作品集、書籍、言葉のメモや絵葉書などが溢れ、壁はほぼ埋め尽くされている。

伺ったときは、所属するギャラリー〈KOSAKU KANECHIKA〉での個展「よれつれもつれ」(11月19日まで)の準備中。針と糸を手に作品と向き合いながら、言葉を導き出し、また次の創作に没頭することの繰り返し。「さらけでるもの」もまた一つの過程であり、彼女自身は現在進行形の偶然性を求めて歩み続けていた。