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「僕らは若くて、クレイジーだった」。映画プロデューサー、ジェレミー・トーマスだけが知っている坂本龍一

アーティストに愛されるアーティストだった坂本龍一。現代美術の巨匠から中国の若手バンドまで、分野も年代もさまざまな彼らは、坂本とどんな会話を交わし、何を受け取ってきたのか。世界中の才能たちに、「わたしだけが知っている坂本龍一」を聞きました。映画製作を通して坂本と出会い、40年にわたって友情を育んできた映画プロデューサー、ジェレミー・トーマスが知る坂本龍一とは?

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photo: Kae Homma / text: Shiho Nakamura

イギリスの映画プロデューサーであるジェレミー・トーマスは、映画製作を通して坂本龍一と出会い、40年にわたって友情を育んできた。

その物語は、ふたりが初めて出会った『戦場のメリークリスマス』から始まり、『ラストエンペラー』のアカデミー賞作曲賞受賞へ結実する。唯一無二の友人だったジェレミーの追憶から探る、坂本が世界に伝えようとしていたこと。

「『戦場のメリークリスマス(以下、『戦メリ』)』の撮影では、役者もスタッフも(クック諸島にある)ラロトンガ島のホテルに押し込められていたんだ。日本側も西欧側も関係なく、みんなごちゃ混ぜで寝食を共にし、仕事をしていた。それこそ映画で描かれた捕虜収容所みたいにね。

そこに、デヴィッド・ボウイや北野(武)や(坂本)龍一がいた。文化の違いを超えてお互いを理解していくことで、作品は面白くなった。コミュニケーションの問題はいろいろあったけど、それは幸せな撮影の時間だったと思う。それぞれが成長し、みんなにとってターニングポイントになったんだ」

大島渚監督の傑作『戦メリ』は、第二次世界大戦におけるインドネシア・ジャワ島の捕虜収容所を舞台にしている。日本と西洋という異なる文化をもつ人びとが戦争を通して出会うなかで生まれた悲劇と友情を描いた作品は、興行的に成功しただけでなく、カンヌ国際映画祭で上映されるなど高い評価を受けた。

「最初、龍一のことはYMOのポップスターというぐらいのイメージしかなかった。撮影中の彼は丁寧で、振る舞いも素敵だった。撮影が進むなかでだんだん話すようになり、お互い似たところがあると感じて友達になったんだ」

ジェレミー・トーマスのポートレート
40年以上経った今も、ジェレミーは撮影時の詳細なエピソードをよどみなく話し続ける。

「撮影が終わると、龍一は音楽制作に取り掛かった。彼は映画音楽を作るのが初めてだったから、最初は不安を口にしていたよ。でも、大島がずっと励ましていたんだ。(坂本が演じた)ヨノイ大尉として曲を作ってほしいと言ってね。そして出来上がった曲は本当に素晴らしいものだった。作曲技術と映画音楽に対する深い理解があったからこそだと思う」

ふたりが再び映画製作をともにしたのは、それから4年後のこと。ベルナルド・ベルトルッチ監督が、中国・清王朝で最後の皇帝となった溥儀の激動の人生を描いた歴史大作『ラストエンペラー』だ。

ジェレミーが坂本に電話をしたのは撮影の直前だった。その時のことを映画『CODA』で坂本は以下のように語った。

「来週から北京に来いと。役者をやれって言うんですよ。たいてい映画の仕事は突然なんですよね」。撮影が始まると、今度は「明後日、(溥儀が満州国の皇帝になる)戴冠式のシーンを撮るから、音楽を作れって急に言うわけですよ。作曲者として雇われているわけではなく、役者として来ていたのに」。その後、結局ほかの曲も作ることになり、それがアカデミー賞作曲賞の受賞へとつながっていく。

「あれは作戦だったんだ。僕はいつも作戦を練っているんだよ。龍一は、本当は役者をやりたくないって言っていた。でもハンサムだし、カリスマ性があるし、素晴らしい役者だよ。だから最初は俳優としてオファーを出した。でも後になって、どうしても音楽が必要になってね。だからお願いしたんだ。

あの頃、僕らは若くて、力がみなぎっていて、クレイジーで、できないことなんてないと思っていたよ。
それに、彼が作曲の才能を持っていることはわかっていたからね。作曲するとき、彼の頭のなかでは音楽がすでに出来上がっていたんだ。そんなことはなかなかあるもんじゃない。才能ある音楽の“教授”は、まるでモーツァルトのようだった」

若い頃の坂本龍一の写真を見るジェレミー・トーマス
その後、ジェレミーがプロデューサーとして、坂本が作曲家として、ベルトルッチ監督とタッグを組み、『シェリタリング・スカイ』や『リトル・ブッダ』を世界に送り出していく。

「龍一は世界を股にかけて仕事していて、ロンドン、NY、東京と飛び回っていた。NYでふたりで食事したときは、一本5000ドルもするワインを開けたりしてね。たまにはそんなクレイジーなこともしたんだ」

そのときにふたりが飲んだ、ボルドーのシャトー・ペトラスで作られた1974年ものの赤ワインのラベルは、坂本をはじめ数々の映画人と撮った大切な思い出の写真とともにジェレミーの仕事部屋にあるボードに貼られている。

「日本のことも愛していて、僕は彼から日本という異なる文化について深く知ることができた。例えば、フグやスッポンなど美味しいものを食べながらね。彼は食べることも大好きだったから」

写真が貼られたコルクボード

その後、ジェレミーは北野武監督や三池崇史監督と一緒に、日本映画のプロデュースも数多く手掛けた。それらの作品では、仁義や自己犠牲など日本人のメンタリティに深く影響を与えている精神性がしばしば描かれている。

映画を通して異なる文化に橋を架けてきた彼のクリエイターとしての姿勢は、環境問題や戦争に国を超えた視点で向き合ってきた坂本の生き方と共鳴する。

「今の時代はコミュニケーションが足りないことが原因で、いろいろな問題が起きている。そんななか龍一は音楽を通して世界をつなごうとしたんだ。彼は政治や地球の問題に関して声を上げる数少ないアーティストだった。1980年代からすでに環境活動家だったんだ。

今、龍一のパートナーであるノリコが彼の作品をとても素敵なかたちで若い世代に伝えている。彼はいつも先にあるものを考えていたから、その作品は常にアヴァンギャルドで新しい。龍一の稀有な音楽は、これからも長く記憶され続けると思うよ。

彼はとても強く、自立した人間だった。そして、きさくで、話しやすい性格だった。常に周りの人に対してやさしかったから、みんなが彼のことが大好きだった。そして僕にとっては、龍一はいつも大切な親友だった」

ジェレミー・トーマスのポートレート